
武蔵野を調べる(調べ学習・自由研究・探究)
境浄水場の水は武蔵野市に届く?玉川上水・千川上水と武蔵野の水の道|武蔵野個別指導塾


境浄水場の水は、武蔵野市の蛇口に届いているのか?
武蔵境駅の北、井の頭通りに面して、敷地およそ20万平方メートルの浄水場があります。東京都水道局の境浄水場です。1924年(大正13年)から100年あまり、多摩川の水を砂の層でこして送り出してきました。ところが武蔵野市が2017年に出した冊子には、こう書かれています。この浄水場の水は、独自の水道がある武蔵野市には給水されていない、と[9]。いまの市の水道のページも、蛇口の水を市内の井戸の地下水と、東京都の東村山浄水場・朝霞浄水場などでつくった水で説明していて、境浄水場の名前は出てきません[12]。
町の真ん中に大きな浄水場がある。それなのに、市の資料によれば、その水は町の蛇口には来ない。この食い違いをほどいていくと、江戸時代に掘られた玉川上水、境橋で分かれる千川上水、そしていまも市内の井戸から地下水をくみ上げている武蔵野市の水道までが、一本の線でつながって見えてきます。武蔵野の水は、地図の上を流れる線と、地面の下を流れる線の、2つの道を持っています。
この記事では、3つの水の施設をたどります。承応2年(1653年)に掘り始められた玉川上水、元禄9年(1696年)に開かれた千川上水、大正13年(1924年)に生まれた境浄水場です。使うのは、文化庁・東京都水道局・武蔵野市などの公的な資料です。最後に、中学生・高校生が調べ学習や探究にするための問いと、資料の当たり方をまとめました。
一言でいうと(この記事の結論)
武蔵野の水の道は、1653年から1654年にかけて羽村から四谷大木戸まで約43kmを92mの標高差で掘られた玉川上水に始まります。1696年には境橋で千川上水が分かれ、1924年には境浄水場が開かれて、村山・山口の貯水池から引いた水を砂でこしてきました。境浄水場の水は主に井の頭通りの下を通って区部へ送られ、武蔵野市の水道は、2023年度で約7割を占める市内27本の井戸の地下水と、東村山浄水場・朝霞浄水場などから受ける東京都の水でまかなわれています。
- 玉川上水は武蔵野台地の尾根を通るように掘られ、そのおかげで台地の左右へ水を分けられました。寛政3年(1791年)ごろには33の分水が記録されています。
- 武蔵野ふるさと歴史館の解説によれば、江戸時代、いまの武蔵野市にあった4つの村のうち、玉川上水の水を使うことを許されたのは境村と関前新田の村人だけでした。
- 千川上水は1696年に境橋で分かれた、江戸市中の上水として最後に開かれた上水です。2006年からは境橋から吉祥寺橋までの約3.8kmを武蔵野市が管理しています。
- いま玉川上水(1986年から)と千川上水(1989年から)を流れているのは、下水を高度に処理した水です。
- 境浄水場の水は井の頭通りの下の管で東へ送られ、武蔵野市の水道は井戸の地下水と東京都から受ける水でまかなわれています。
1. 43kmを92mの落差で——玉川上水は武蔵野の「尾根」を走る
玉川上水は、江戸の町へ水を届けるために掘られた水路です。武蔵国多摩郡羽村(いまの羽村市)の多摩川に取水口を設け、四谷大木戸(いまの新宿区)まで、約43kmを自然流下で導きました。ポンプはありません。地面を掘っただけの素掘りの水路です[1]。工事は幕府の命令を受けた玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟が請け負い、承応2年(1653年)2月に着手し、翌年6月に完成したとされます[1]。東京都水道局の年表は、承応3年(1654年)を給水開始の年としています[3]。
驚くのは、その傾きです。羽村から四谷大木戸までの標高差は、わずか92m[2]。43kmで割ると、1kmあたり約2.1m、100m進んでおよそ21cm下がるだけの計算になります。目で見ればほとんど平らです。それでも水は止まらずに流れ続けなければならない。東京都水道局は、ここに当時の優れた水準測量と水利の技術が使われたと説明しています[2]。
この水路が通る場所にも、はっきりした理由があります。東京都水道局は、玉川上水が武蔵野台地の「りょう線部」を流れているため、台地の各部に水を分けられたと説明しています[4]。りょう線は尾根のことです。武蔵野市の資料も、玉川上水はいまの小金井市・西東京市との境界にあたる尾根筋に引かれたと書いています[20]。
玉川上水は、武蔵野台地の背骨の上に置かれた水路です。背骨の上に水があれば、右へも左へも、低いほうへ水を落とせます。武蔵野の村や畑に水が配られていった仕組みは、この位置取りから始まっています。
玉川上水は2003年(平成15年)8月27日に国の史跡になりました。指定されたのは、羽村取水口から四谷大木戸までのうち、ふたのない開渠の部分約30.4kmで、その所在地として挙げられた12の区と市の中に武蔵野市も入っています[1]。
明治の初めには、この水路に船が浮かびました。明治3年(1870年)、羽村から四谷大木戸までの通船が始まり、多摩地域の産物を短い時間で運べるようになりました[2]。ところが船が増えると水が汚れ、通船は明治5年に廃止されます[3]。いまは細い流れを木々がおおう玉川上水に、荷を積んだ船が行き来していた時期が、わずか2年だけあったのです。飲み水の水路に荷船を通すのは、やはり無理があったようです。

2. 上水のそばにいても、水を使えるとは限らなかった——分水と新田
尾根を流れる玉川上水からは、多くの分水が引かれました。最初の分水は明暦元年(1655年)の野火止用水で、分水は飲み水、田畑をうるおす水、水車を回す動力として使われ、水の乏しい武蔵野台地の開発を支えました[4]。江戸時代中期の寛政年間までに設けられた分水は33か所にのぼり[1]、寛政3年(1791年)ごろの記録『上水記』にも33の分水が載っています[3]。
分水が一気に増えたのは、享保の改革のころです。新田開発が本格化し、この時期から分水の開設が増えていきました[2]。武蔵野市の資料は、尾根筋の玉川上水から千川上水、品川用水、境分水などの分水網が整えられ、多くの村がつくられたと書いています[20]。いまの武蔵野市の場所には、吉祥寺村・西窪村・関前村・境村の4つの村がありました[5]。
ここで、武蔵野ふるさと歴史館の子ども向けの解説に、少し意外な一文があります。4つの村の中で玉川上水の水を使うことを許されたのは、境村と、関前村のとなりに新しくつくられた関前新田の村人だけだった、というのです。しかも多くの村人は、玉川上水の水をきれいに保つよう求められ、上水とそのまわりを掃除しなければなりませんでした[5]。
水は使えない。けれど掃除はする。いまの集合住宅の決まりでも、ここまで割に合わない当番はなかなか見かけません。玉川上水は、村のための水路ではなく、江戸のための水路でした。武蔵野の村々は、その通り道を預かる係でもあったのです。
上水の水は、だれでも好きなだけくめるものではありませんでした。どの村に、どれだけの水を、どの口から分けるのか。それは許可と管理の対象でした。「水が流れているのに使えない」という状態は、武蔵野の暮らしが江戸という大きな町とどう結びついていたのかを、よく映しています。歴史館が「許された」という言葉を選んでいることに、目をとめておきたいところです。
3. 境橋で分かれる千川上水——江戸で最後に開かれた上水
武蔵野市の境橋のあたりで、玉川上水から分かれていく流れがあります。千川上水です。千川上水は元禄9年(1696年)、本郷・下谷・浅草方面の飲み水として玉川上水から分水されました[8]。武蔵野市の計画書は、千川上水を江戸城と江戸市中の水道としては最後に開かれた上水だとしています[7]。東京都水道局は、青山・三田・千川の3つの上水が、明暦の大火のあとに広がった江戸の水の需要を支えるために分水されたと説明しています[4]。
設計は河村瑞軒と伝えられ、工事は仙川村の出身と伝えられる徳兵衛・太兵衛が請け負いました。分水口から巣鴨までの工事にかかった費用は1,340両余り。そのうち幕府が出したのは860両余りにすぎず、足りない分は2人が私費で埋めました[8]。幕府の支出は全体の3分の2ほどにとどまったことになります。
2人はその功によって、上水と同じ「千川」の姓と、刀を差すことを許されました。子孫は代々、千川上水の取締役を務めています[8]。工事費の不足を自腹で埋めて、もらったのは名字と刀。いまの感覚では割に合わない取引に見えますが、「千川」という名は300年以上たったいまも、上水と千川通りの名前として東京の地図に残っています[9]。
千川上水の道筋にも、尾根の考え方が生きています。千川上水は、北の石神井川と南の神田川という2つの水系の分水界、つまり水の分かれ目の高みを選んで掘られ、巣鴨まで開渠で流れていました[7]。いまは武蔵野市と西東京市の市境を流れ、青梅街道を越えてから地下の暗渠になり、千川通り沿いに豊島区西巣鴨まで続いています[9]。
江戸の飲み水として生まれた千川上水は、やがて別の役目も負います。宝永4年(1707年)には上水沿いの20の村の農民が、この水を田に引くことを許されました。明治以降は印刷局や王子製紙などの工場用水として大量に使われています[8]。飲み水から田の水へ、田の水から工場の水へ。一本の水路が、時代ごとに町が求めるものを映してきました。
上水としての役目が終わったのは1971年です。東京都水道局の板橋浄水場の廃止などにともない、千川上水は上水としての使命を終えました[9]。武蔵野市の計画書も、昭和46年(1971年)に通水が途絶えたと記しています[7]。
いまの千川上水は、武蔵野市が守っています。2006年(平成18年)、境橋から吉祥寺橋までの約3.8kmの管理が、東京都から武蔵野市に移されました[7]。流れの幅は1.3mから2.5m、水深は15cmから25cmほど[7]。くるぶしより少し深いくらいの水が、江戸の上水の名前を背負って、住宅地のあいだを静かに流れています。

4. 1965年に止まり、1986年に戻った水——あのころ/いま
近代になっても、玉川上水は東京の水道の背骨でした。明治31年(1898年)に淀橋浄水場ができると、玉川上水の水はこの浄水場へ導かれ、こした水が都心へ配られました[1][3]。江戸の水路が、そのまま近代水道の導水路になったのです。
転機は昭和40年(1965年)です。淀橋浄水場が廃止され、小平監視所より下流には水が流されなくなりました[3]。武蔵野市を通る区間も、ここで水を失います。武蔵野市の子ども向けの解説は、水の流れない玉川上水がごみ捨て場のようになってしまったと書いています[6]。
あのころの玉川上水は、水のない溝でした。いまの玉川上水には、もう一度、水が流れています。昭和61年(1986年)、東京都の清流復活事業によって、小平監視所から浅間橋までの区間に水が戻りました[3]。武蔵野市は、武蔵野市民をはじめとする多くの人々の努力で、玉川上水にまた水が流れるようになったと説明しています[6]。千川上水にも、平成元年(1989年)に清流復活事業で水が戻りました[7]。
ただし、戻ってきたのは昔と同じ水ではありません。玉川上水にも千川上水にも流されているのは、下水を高度に処理した水です[2][7]。千川上水については、上流の開渠部約5kmに水再生センターからの処理水が流されていると、武蔵野市の資料が書いています[9]。
いま武蔵野市の上水を流れているのは、羽村からまっすぐ来た江戸の水ではありません。東京のだれかが一度使い、きれいにし直した水です。上水沿いを歩いて水音を聞くとき、その水は町の暮らしをひと回りしてここへ来ています。「清流復活」という言葉の「復活」が何を指しているのかは、調べ学習の問いとしても考えがいのあるところです。
5. 1924年、砂を運ぶ線路とともに——境浄水場の始まり
境浄水場は、東京市の大きな水道拡張の中で生まれました。大正2年(1913年)に始まった東京の水道の最初の拡張工事は、24年をかけて完了します[10]。その第1期工事は大正13年度にひとまず終わり、完成した主な施設として、羽村村山線(導水路)、村山上貯水池、村山下貯水池の堰堤の下半分、境浄水場、境和田堀線(送水管)、和田堀浄水池などが挙げられています。これで1日あたり約14万立方メートルの施設能力が増えました[10]。
工事のさなかの1923年9月には、関東大震災が東京を襲っています。その後の復興の工事で、境浄水場の能力が増やされ、和田堀浄水池と境浄水場をつなぐ送水管が整えられました[10]。境浄水場は大正13年(1924年)に開かれ、村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)から導いた水を、緩速ろ過という方式できれいにしてきました[11]。緩速ろ過は、砂の層にゆっくりと水を通してこす方式です。
この浄水場には、武蔵境駅から線路が引かれていました。武蔵野市と三鷹市の資料によると、開設のときには武蔵境駅から浄水場の南まで、建築資材とろ過用の砂を運び込むための引込線があり、いまの本村公園と本村第2公園は、その軌道の跡を使った緑の遊歩道です[11]。武蔵境駅の近くから浄水場のほうへのびる細長い公園は、浄水場へ砂を運んだ線路の、記憶の帯です。
砂でこす浄水場には、広い池がいくつも並びます。その水面は、空から見ると目立ちました。戦争中、このろ過池は空襲の目印にされ、水面に網やよしずを張って光を反射しないように隠したことが知られています[11]。水をきれいにするための池が、きれいに光りすぎて目印になってしまったわけです。戦時中の武蔵野の空襲については、同じ特集の中島飛行機の記事が詳しく扱います。
ちなみに境浄水場が開かれた1924年は、玉川上水の堤の桜並木が国の名勝「小金井(サクラ)」に指定された年でもあります[21]。水の施設と花の名所が、同じ年に同じ上水の近くで、それぞれ新しい役目を得ました。
6. 境浄水場の水はどこへ行くのか——井戸の町・武蔵野市
では、境浄水場でこされた水はどこへ行くのでしょうか。2016年に武蔵野市の会議で東京都水道局が行った説明によると、浄水場でできた水は、井の頭通りの下に埋められた水道管を通って、世田谷方面へ自然流下で配られています[16]。大正時代の計画にあった「境和田堀線」という送水管の名前も、水が境から東の和田堀へ向かう道筋を示しています[10]。武蔵野市の水のパンフレットも、境浄水場は村山・山口貯水池の水を浄水処理して区部に送っていると説明しています[22]。
水の運び方も、玉川上水とよく似ています。原水は村山貯水池と山口貯水池から約30mの高低差を使い、自然流下で境浄水場まで届いています[16]。承応の上水からおよそ270年をへだてて、武蔵野の水はやはり「高いところから低いところへ」という同じ原理で運ばれているのです。
一方で、武蔵野市の家々の蛇口には、どこの水が届いているのか。武蔵野市は、市内27本の井戸から地下水をくみ上げ、2つの浄水場で消毒・ろ過し、東京都が管理する東村山浄水場・朝霞浄水場などでつくった水をまぜて送り出しています[12]。2023年度の実績では、井戸からくみ上げた地下水が11,466,822立方メートル、東京都から受けた水が4,924,600立方メートルで、合わせて16,391,422立方メートルでした[12]。割り算をすると、地下水が約7割になります。
市の年表をたどると、1959年(昭和34年)3月に第二浄水場が完成して給水を始め、1967年(昭和42年)7月に東京都からの受水が始まっています[14]。武蔵野市が2017年の冊子で、境浄水場の水は「独自の水道がある武蔵野市には給水されていません」と書いているのは、この仕組みのことです[9]。
武蔵野市は、町の中に大きな浄水場を抱えながら、自分の足もとの井戸の水をおもに飲んでいる町です。浄水場の名前の「境」は地名ですが、水の上でも、ここはたしかに一つの境目になっています。
この形は、これから変わるかもしれません。2025年12月22日、武蔵野市長は東京都知事あてに「都営水道への早期統合に関する要望」を出し、早期の統合の実現に向けて全力で取り組むと述べています[13]。井戸の町の水道が、これからどこへ向かうのか。数年後に読み返すと、この節の答えは変わっている可能性があります。
7. 浄水場の水が川になる——仙川と洗砂水、そして建て替え
境浄水場は、もう一つの流れも支えてきました。桜堤のあたりを流れる仙川です。環境省の事例集によれば、武蔵野市の仙川はもともと雨が降ったときだけ流れる細い流れを人の手で掘り広げたものとされ、ふだんは水の少ない川でした[15]。
そこへ平成12年(2000年)から、浄水場で使われた「洗砂水」が導かれるようになりました。昼間は洗砂水を直接流し、夜は市立桜堤公園の地下の貯水槽にためた洗砂水を使います[15]。洗砂水とは、ろ過に使う砂を洗った水のことです。導水管は、規則で玉川上水の上を通すことができないため、玉川上水の地下をくぐり抜けるように通されました。導水路は全長約1,400m、平日には1日平均でおよそ500立方メートルを流していたと記録されています[15]。
武蔵野市のパンフレットも、桜堤の周辺では境浄水場の洗砂水などを流して、仙川の流れを再生していると書いています[22]。砂を洗ったすすぎの水が、川の水になる。水をこす仕事の、そのまた後始末の水が、武蔵野市でほとんど唯一といわれる水辺の流れを支えてきました。浄水場の水は、市の資料によれば武蔵野市の蛇口には来ませんが、武蔵野市の川には来ていたのです。
その境浄水場は、いま大きく姿を変えようとしています。東京都水道局は、大規模な浄水場を更新する工事のあいだに下がる能力を補う「代替浄水施設」として、境浄水場の再構築を進めています[17]。2016年の説明では、これまでの緩速ろ過池を急速ろ過の施設に改め、カビのにおいなどを取り除くためにオゾンと活性炭を使う処理を加える計画が示されました。自転車道の下に2.5mほどの導水管を新しく設けることも説明されています。新しい施設も、いちばん高い着水井から低いほうへ自然流下を使い、ほとんどエネルギーを使わずに処理する設計だと説明されています[16]。2025年9月には報道陣に工事の現場が公開されました[18]。東京都水道局が2026年3月に定めた「東京水道経営プラン2026」の工程表では、境浄水場の工事は2035年度より先まで続く予定になっています[23]。
100年前、砂を運ぶ線路とともに始まった浄水場が、砂でゆっくりこす方式を手放して、次の100年の形に移ろうとしています。建て替えのあとに仙川へ送られる水がどうなるのかも、これから見守りたい点です。
8. 上水沿いを歩く——境橋・境水衛所跡・桜通り
武蔵野の水の道は、歩いてたどることができます。東京都水道局の案内では、武蔵境駅の北口から「すきっぷ通り」をまっすぐ15分ほど歩くと玉川上水に出ます。桜橋を渡って左に折れ、上水沿いを7〜8分ほど進むと「史跡玉川上水の碑」があります[19]。この碑は昭和56年(1981年)に建てられたもので、そのすぐ左手が「境水衛所跡」です。ここにはかつて、江戸市中の水を確保するために水番人が常駐する水衛所がありました[19]。
武蔵野市の資料によると、江戸時代のこの場所には玉川上水の流れを見張る「水番所」があり、その後も「境水衛所」と呼ばれて、長く立ち入りのできない場所でした。いまは小さな公園になり、千川上水の取水口を見ることができます[9]。東京都水道局は、途切れていた散策路をつなぐために、この境水衛所跡で既設のフェンスを後ろへ移すなどの整備も行いました[2]。かつて番人が水を守っていた場所に、いまはだれもが立てるようになっています。
境橋は、玉川上水と千川上水が分かれる場所、つまり千川上水の始まりです[9]。ここから千川上水に沿って歩けば巣鴨へ向かった水の道を、三鷹駅のほうへ玉川上水を下れば四谷大木戸へ向かった水の道をたどることになります。三鷹駅の北口からは、玉川上水沿いの桜通りを30分ほど歩くと碑に着くと案内されています[19]。このあたりの堤は、名勝「小金井(サクラ)」の区間にも入っています[19]。
歩いてみると、地図の上ではわからないことに気づきます。上水の両側の道とくらべて、水路はどちらに高く、どちらに低いのか。分かれた千川上水は、どちらへ向かって下っていくのか。尾根を流れる水路という話は、足の裏で確かめることができる話です。
調べ学習・自由研究・探究にするなら
武蔵野の水の道は、町の中に実物が残り、公的な資料が多く公開されている題材です。地形、歴史、公共の仕組み、環境のどれから入っても、自分の問いを立てられます。たとえば、次のような問いから始めてみてください。
- なぜ玉川上水は、武蔵野台地の尾根を通るように掘られたのか。地図の標高と見くらべると何がわかるか。
- 江戸時代の武蔵野の村々にとって、玉川上水は「恵み」だったのか、それとも「負担」だったのか。
- 武蔵野市はなぜ、市内の井戸の地下水を中心にした自前の水道を続けてきたのか。これからの水道はどうあるのがよいのか。
- 下水を高度に処理した水が流れるいまの玉川上水で、「清流復活」は何を取り戻したといえるのか。
- 境浄水場が緩速ろ過から急速ろ過へ変わると、何が変わり、何が変わらないのか。
入口になる資料は、文化庁の文化遺産オンラインにある史跡「玉川上水」の解説と、東京都水道局が公開している玉川上水の年表や整備活用計画の資料です。東京都水道歴史館の解説資料、武蔵野市の「千川上水整備基本計画」と水道の数字(市の公式サイトで毎年更新されます)も役に立ちます。武蔵野ふるさと歴史館(武蔵野市境5-15-5)は、市の歴史と文化財を扱う施設です。開館日や利用のしかたは変わることがあるので、最新は武蔵野市の公式サイトで確かめてください。地形を調べるなら、国土地理院の地図で標高を色分けして表示し、玉川上水と千川上水の線を重ねてみると、尾根の話が目で見えるようになります。
現地で確かめるときは、決まりを守ってください。玉川上水の法面は高さが3〜8mほどあり、霜や乾燥で崩れやすい場所が多いと東京都水道局は報告しています[2]。柵の内側や水路の中には入らないこと。浄水場や井戸の施設は柵の外から見ること。私有地に入らないこと。写真を撮るときは、通行の邪魔にならない場所を選びます。
中学生の自由研究なら、「境橋から千川上水と玉川上水をそれぞれ1km歩き、流れの幅・深さ・まわりの土地の高さを記録して、資料の数字とくらべる」という形がおすすめです。自分で測ったことと資料に書かれたことを並べられます。高校の探究なら、「武蔵野市の水道は都営水道に統合されるべきか」のように、答えが一つに決まらない問いを立ててみてください。市の資料と東京都の資料、地下水と災害のことを調べたうえで、自分の立場と反対の立場の両方を書くと、考えが深まります。
総合型選抜の志望理由書や探究の記録に使うなら、大切なのは「調べたこと」を「自分の問い」に変えることです。たとえば「浄水場がある町なのに、その水を飲んでいない」という事実に出会ったとします。なぜそうなったのか。それは良いことなのか。ほかの町ではどうなのか。そう問いを重ねていけば、それは公共の仕組みや環境、都市計画を学ぶ理由になります。身近な場所で見つけた食い違いは、大学で何を学びたいかを語るときの、いちばん説得力のある出発点です。
この回の冒頭の問いを、資料を読み比べて自分の手で確かめる手順は、境浄水場の水は武蔵野市の蛇口に届く?資料3つで確かめる探究ワークシートにまとめています。
武蔵境の教室から
武蔵野個別指導塾は、武蔵境駅nonowa口から徒歩30秒の教室で、講師1人に生徒1人の完全1対1で授業をしています。総合型選抜は代表の宮川が専任で担当し、身近な場所から探究のテーマを立てるところから、志望理由書、面接の準備までを一緒に進めます。「境浄水場の水はどこへ行くのか」のような小さな疑問も、問いの立て方しだいで、立派な探究の入口になります。自分の町で見つけた問いを、大学で学びたいことにつなげたいと考えている人は、総合型選抜(旧AO)入試対策のページものぞいてみてください。
特集「武蔵野を調べる」の1本です
武蔵境・武蔵野市を一次資料から掘る9つの題材と、調べ学習・探究の進め方は総合案内にまとめています。あわせて読む: 桜堤の由来は玉川上水の桜?名勝「小金井(サクラ)」と花見の駅・武蔵境・国木田独歩『武蔵野』と武蔵境・桜橋の碑——夏に来て「桜は春咲く」と笑われた独歩
よくある質問
境浄水場の水は武蔵野市で使われていますか?
武蔵野市が2017年に出した冊子は、境浄水場の水は武蔵野市には給水されていないと書いています。いまの市の水道のページも、市の水道水を、市内27本の井戸の地下水に東京都の東村山浄水場・朝霞浄水場などでつくった水をまぜたものと説明しています。境浄水場の水は、主に井の頭通りの下の水道管で区部へ送られています。
玉川上水はいつ、だれが作りましたか?
玉川上水は、幕府の命を受けた玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟が請け負い、承応2年(1653年)2月に着手して翌年6月に完成したとされます。羽村から四谷大木戸まで約43kmを、92mの標高差で自然流下させる水路です。
千川上水はどこで玉川上水から分かれていますか?
千川上水は、武蔵野市の境橋のあたりで玉川上水から分かれています。元禄9年(1696年)に開かれ、いまは境橋から吉祥寺橋までの約3.8kmを武蔵野市が管理しています。
玉川上水と千川上水に流れている水はどこから来ていますか?
いま玉川上水と千川上水に流れているのは、下水を高度に処理した水です。玉川上水は1986年、千川上水は1989年に、東京都の清流復活事業で水が戻りました。
境浄水場はいつできましたか?
境浄水場は大正13年(1924年)に開かれました。村山貯水池と山口貯水池の水を緩速ろ過でこしてきた浄水場で、いまは急速ろ過などへの建て替えが進んでいます。
出典
- 文化庁 文化遺産オンライン「玉川上水」 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/218289
- 東京都水道局「史跡玉川上水整備活用計画の改定に係る検討状況について」(2023年11月7日) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/01_setsumei
- 東京都水道局「玉川上水の沿革(関連年表)」(第1回史跡玉川上水整備活用計画検討委員会 資料、2023年5月23日) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/shiryo03_nenpyo
- 東京都水道局「玉川上水の分水」 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/tama_03
- 武蔵野市(武蔵野ふるさと歴史館)キッズページ「江戸時代の武蔵野」 https://www.city.musashino.lg.jp/kids/rekishi/1011332.html
- 武蔵野市(武蔵野ふるさと歴史館)キッズページ「玉川上水」 https://www.city.musashino.lg.jp/kids/rekishi/1031112.html
- 武蔵野市「千川上水整備基本計画」(2010年5月) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/172/14157-1.pdf
- 練馬区「千川上水跡」 https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b047.html
- 武蔵野市「水のほそみち紀行」(水の学校、2017年) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/732/mizunohosomichi.pdf
- 東京都水道歴史館「第一水道拡張事業完成」 https://www.suidorekishi.jp/pdf/s_history_9.pdf
- 武蔵野市・三鷹市「武蔵野・三鷹 #平和まち歩き 東京都水道局 境浄水場(空襲被災地)」 https://www.city.mitaka.lg.jp/peace-tourism/spots/musashino_01_02.html
- 武蔵野市「武蔵野市の水道のあらまし」(2024年10月11日更新) https://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_tetsuzuki/jogesuido/suido/suidojigyo/1005629.html
- 武蔵野市長「都営水道への早期統合に関する要望」(2025年12月22日) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/053/146/youbousho_20251222.pdf
- 武蔵野市「武蔵野市歴史年表 昭和30年~昭和42年」 https://www.city.musashino.lg.jp/shiseijoho/musashino_profile/rekishinempyo/1003303.html
- 環境省「水環境の事例 39 東京都・武蔵野市・仙川(仙川緑地)」 https://www.env.go.jp/water/junkan/case2/pdf/39.pdf
- 武蔵野市「平成28年度第4回武蔵野市まちづくり委員会議事録」(2016年10月6日、東京都水道局による境浄水場再構築の説明) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/501/20161006giziroku.pdf
- 東京都水道局「経営計画に掲げた施策の達成状況の把握とその評価【令和元年度】Ⅰ-1 安定」 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suidojigyo/torikumi/hyoka/r01/01
- 日刊建設工業新聞「東京都水道局/2浄水場を報道陣に公開/境は30年代早期に再整備完了」(2025年9月11日) https://www.decn.co.jp/?p=177366
- 東京都水道局「史跡玉川上水の碑」(玉川上水の散策案内) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/shiseki
- 武蔵野市「武蔵野市にくる・ゆく~武蔵野の水事情とおすすめ水めぐり6選~」(水の学校) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/732/kurumizua4.pdf
- 文化庁 文化遺産オンライン「小金井(サクラ)」 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/216129
- 武蔵野市 水の啓発パンフレット(2015年3月、水の学校の内容をもとに編集) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/732/ohmizu.pdf
- 東京都水道局「東京水道経営プラン2026」(2026年3月、資料編「主要な施設整備の工程」) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/104012008026-01
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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