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桜堤の由来は玉川上水の桜?名勝「小金井(サクラ)」と花見の駅・武蔵境|武蔵野個別指導塾


桜堤の「桜」と「堤」は、どこにあるのか?名勝「小金井(サクラ)」をたどる
武蔵境駅の北口から「すきっぷ通り」を15分ほど歩くと、玉川上水に出ます[22]。堤の上には、幹の太い桜がところどころに立っています。ここに並ぶ桜の多くは、街路でよく見るソメイヨシノではなく、ヤマザクラです。文化庁の指定の文は、この並木の桜を、若葉の色も花の色も形も咲く時期も「殆ト樹毎ニ異ナルガ如キ」と書いています[1]。1本ずつ顔が違う桜の並木なのです。
この並木は1924年(大正13年)12月9日、国の名勝「小金井(サクラ)」に指定されました。名前は小金井でも、指定の範囲は小金井市・小平市・西東京市と、武蔵野市にまたがっています[1]。武蔵野市の部分は、境橋から西の両岸です[20]。そして、その南に広がる町の名前が「桜堤」です。
ところが調べていくと、意外なことがいくつも出てきます。この桜は花を愛でるより先に、新田に人を呼ぶために植えられたと伝わること。明治の花見客にとって、武蔵境は小金井の桜へ向かう玄関の駅だったこと。名勝の区間のうち、武蔵野市の部分がいちばん高い割合で桜を失ってきたこと。そして「桜堤」という町名が、団地より新しいことです。この記事では、文化庁、小金井市、武蔵野市、東京都水道局などの公的な資料で、桜と町の来歴をたどります。
一言でいうと(この記事の結論)
桜堤の北を流れる玉川上水の堤には、元文2年(1737年)ごろ、新田のにぎわいのために川崎平右衛門らが吉野や桜川から取り寄せて植えたと伝わるヤマザクラの並木があり、1924年12月9日に国の名勝「小金井(サクラ)」になりました。桜堤という町名は1962年4月の町名整理で境から生まれたもので、小金井に駅がなかった明治・大正の花見では、境駅(いまの武蔵境駅)と国分寺駅が最寄りの駅でした。
- 名勝の指定区間は約6kmで、武蔵野市では境橋から西の両岸が入っています。
- 植えた目的は「新田の賑わい」と伝わり、1810年の碑文は、根が堤の崩れを防ぎ、花びらが水の毒を消すといった効用まで挙げています。
- 小金井市の資料では、1889年の甲武鉄道は小金井の花見にあわせて開通したとされ、小金井に臨時の停車場ができる1924年まで、武蔵境と国分寺が最寄りの駅でした。
- 1925年に1,468本あった桜は、2011年には786本。武蔵野市域では1993年の102本が39本に減り、枯死率62%は4市のうち最も高い数字でした。
- 桜堤という町名は1962年生まれです。1959年に完成した団地は建て替えを経て、その緑地が2025年に環境省の「自然共生サイト」に認定されました。
1. 1737年ごろ、新田のにぎわいのために——誰が、なぜ植えたのか
玉川上水そのものは、承応2年(1653年)に着手され翌年に完成した、江戸へ水を送る水路です[23]。その堤に桜が並んだのは、それから80年あまりのちのことでした。
小金井市と東京都の説明は、ほぼ同じ言葉でこう伝えています。武蔵野新田の開発が行われた元文2年(1737年)ごろ、川崎平右衛門らが「新田の賑わい」のために、吉野(奈良県)や桜川(茨城県)から山桜の名品種を取り寄せた。そして、小金井橋を中心とする玉川上水の堤の両岸約6kmに植えた、と[3][12]。東京都水道局の年表も、川崎平右衛門定孝が幕府の命により桜を植えたと「伝わる」と書いています[10]。どの資料も「伝えられている」と書くところに、この話の手ざわりがあります。
川崎平右衛門定孝は、元禄7年(1694年)にいまの府中市の名主の家に生まれ、30代の享保年間に新田世話役を命じられた人物です。のちに木曽川の改修工事も担当し、晩年は石見銀山の奉行も兼ね、明和4年(1767年)に73歳で亡くなりました[8]。元文4年(1739年)には南北武蔵野新田場の世話役に登用され、関野新田に陣屋を置いて移り住んでいます[7]。新田の開発の現場に住みこんだ人だったわけです。
小金井の桜は、花のために植えられたのではなく、人を呼ぶために植えられた桜です。花見は、新しく開かれた村々に、人とお金を運ぶ仕掛けでした。
おもしろいのは、植えるよう命じた人の名前が、資料によって違うことです。文化庁の指定の文は「幕府ノ命ニ依リ武藏新田世話役川崎平右衞門ノ種植ニ係リ」と書きます[1]。一方、西東京市は、8代将軍吉宗の時代に大岡越前守忠相の命によって植えられたと説明しています[9]。名奉行として知られる大岡越前が、ここでは桜並木の話に顔を出します。
由来があいまいになったのは、最近のことではありません。植えてから70年あまりたった文化7年(1810年)には、小金井桜の由来にすでに諸説がある状態になっていました。そこで漢学者の大久保狭南が、平右衛門の孫らとともに、植樹の功績を伝える碑を建てました[7][3]。江戸の人々も、「この桜はだれが植えたのか」と首をかしげていたのです。
この碑文は、桜を植えることの効用も書き残しています。根が張って堤が崩れるのを防ぐ。春は花が人々の目を楽しませる。夏は街道の木陰になる。玉川上水を清潔に保ち、桜の花びらなどが水の毒を消す[3]。花びらが毒を消すという理屈は、いまの水道の考え方とはだいぶ違います。けれど、堤を守り、日陰をつくり、人を呼ぶ。1本の木に4つも5つも役目を負わせたところに、水の乏しい台地で新田を立ち上げようとした人たちの、切実な計算が見えるようです。

2. 江戸近郊の花見の名所へ——ガイドブック、広重、明治天皇
小金井の桜は、18世紀の終わりごろから江戸近郊でも指折りの花見の名所になっていきました[3]。江戸時代のあいだに、桜は何度か補植されています[10]。植えっぱなしではなく、手を入れながら守られてきた並木です。
人を呼んだのは、桜だけではありません。文化元年(1804年)3月、江戸の俳人・露庵有佐が仲間3人と小金井へ花見に出かけ、その紀行『玉花勝覧』を出しました。小金井への道順や沿道の名所を描いた絵図まで載せたこの冊子によって、江戸からの花見客が増えたと小金井市は説明しています[3]。いまでいう観光ガイドブックが、220年あまり前の花見をにぎやかにしたのです。
浮世絵師の歌川広重も、小金井の風景を数多く描きました。最晩年の作「富士三十六景 武蔵小金井」(安政6年・1859年)は、手前に大胆に配した山桜の老木の幹のうろから、遠くに富士山をのぞかせる構図です[3]。
明治に入ると、評判はさらに高まります。明治16年(1883年)、明治天皇が小金井の桜を見るために足を運び、花の名所としての名がいっそう広まりました[10]。明治38年(1905年)には植物学者の三好学が小金井の山桜を初めて紹介し[10]、のちに「日の出の桜」「三吉野桜」「富士見桜」「小金井匂」など60数種の天然の品種に分類しています[2]。1本ずつ違う桜に、1本ずつ名前がつけられていったのです。
3. 武蔵境は「花見の駅」だった——1889年の甲武鉄道
明治22年(1889年)4月11日、いまの中央線の一部にあたる甲武鉄道が開通しました[4][24]。小金井市はこの開通を、小金井の花見にあわせたものだったと説明しています。それまで歩いて1日がかりだった花見の道のりが、東京から40分ほどの近さになり、小金井は東京近郊の行楽地としてにぎわいました[4]。開業したときの駅は、新宿・中野・境・国分寺・立川の5つだけでした[24]。
つまり、小金井には駅がありません。小金井市の資料ははっきりと、当時の小金井には停車場がなく、武蔵境と国分寺の停車場が最寄りの駅だったと書いています[5]。明治・大正の花見客にとって、武蔵境は小金井の桜へ向かう玄関でした。桜の季節に限っていえば、武蔵境は小金井の表玄関の1つだったのです。
堤の近くの新田の農家は、縁台を出して花見茶屋を開き、暮らしを大いに潤しました[4]。平右衛門たちが「新田の賑わい」を願って植えた桜は、150年ほどたって鉄道とつながり、いっそう大きな役目を果たすようになりました。
小金井に駅ができたのは、大正13年(1924年)です。花見の時期だけの臨時の停車場として開かれ、大正15年1月に正式な武蔵小金井駅になりました[5]。小金井市の市報も、1924年に「観桜のための仮乗降場」として開設されたと書いています[13]。いまの武蔵小金井駅は、もとは桜の季節だけ開く、期間限定の駅だったわけです。
その記憶は、いまの武蔵境駅にも残っています。武蔵野市の広報誌によると、北口ロータリーの整備にあわせて4種の桜が植えられました。かつて玉川上水の花見でにぎわった駅の歴史をふまえ、地域の要望も取り入れて選ばれたもので、いずれも4月の中旬から下旬に咲く遅咲きの桜です[14]。武蔵境駅北口の桜は、この駅が花見客の玄関だった時代の、小さな記念碑です。

4. 1924年、国の名勝へ——1,468本に番号をつけた人たち
明治の終わりから、三好学による品種の研究と、天然記念物を守る運動が活発になりました[5]。東京都水道局の年表によると、大正2年(1913年)には東京市公園課が、外科的な手術などで桜の木を守る事業を始めています[10]。木の外科手術です。大正4年(1915年)には有志による「小金井保桜会」が結成され、東京市の保護事業を支えました[10]。小金井市によれば、この会をつくったのは小金井・小平・武蔵野・保谷の4つの村の人々で、その活動の結果、大正13年(1924年)12月9日に国の名勝に指定されました[5]。武蔵野村の人々も、この並木を守る側に名を連ねていたのです。
指定の理由は、大正13年11月10日付で内務省から東京府知事にあてた通知にまとめられています[2]。東京府下でも桜の名所として知られ、玉川上水の両岸に約一里半にわたって1,000本を超える桜が育ち、大木も少なくない。もとは吉野と桜川の白山桜を移したものだが天然の変種が多く、品種の多さ、変化の多さ、大木の多さは小金井の桜の特徴であり、「本邦屈指ノ桜花ノ勝地ナリ」。文化庁のデータベースにも、ほぼ同じ文が載っています[1]。文化庁のデータベースは、管理団体を東京都とし、その日付を大正14年6月11日としています[1]。
指定の翌年、大正14年(1925年)9月、東京市は名勝の区域の桜を1本残らず数え上げました。総数は1,468本[6]。この調査が画期的だったのは、数え方です。小金井橋を起点にして、上流の南岸・上流の北岸・下流の南岸・下流の北岸の4つに分け、橋と橋のあいだに何本の桜があるかを明らかにしました。三好学はのちに『小金井桜花図説』(1927年から)で、桜に和名だけでなく番号も割り振っています。たとえば「日の出の桜」の番号は「下北31」。小金井橋の下流北岸で、橋から数えて31番目の木という意味です[6]。
桜の1本1本に、番地がついたわけです。番号があれば、どの木が枯れ、どの木が残ったのかを、何十年たっても確かめられます。このきちょうめんな台帳は、その後の並木の変化を測る物差しにもなりました。
| 調査の年 | 名勝区域の桜の本数 | 資料 |
|---|---|---|
| 1925年(大正14年) | 1,468本 | 東京市の調査(翌年『小金井の桜』で公表) |
| 1993年(平成5年) | 1,115本 | 東京都教育委員会の調査 |
| 2006年(平成18年) | 927本 | 東京都水道局の調査 |
| 2008年(平成20年) | 855本 | 東京農工大学の調査 |
| 2011年(平成23年) | 786本 | 小金井市教育委員会の調査 |
表の数字は、小金井市の整備活用実施計画の表によります[2]。1993年の本数は、同じ資料の本文では1,120本とも書かれていて、数え方の違いがあるようです。
5. 並木はなぜ弱ったのか——戦争、道路、止まった水
名勝になった並木は、そのあと何度も危機を迎えます。最初は戦争です。1943年に維持管理が東京都に引き継がれたものの、戦時体制の中で手入れが止まり、桜の衰えが進みました。1952年の調査では、戦前に三好学が名づけた33の品種のうち、14種がすでに消えていました[2]。
次は道路でした。小金井市の計画は、1954年に日米行政協定にもとづいて行われた五日市街道の拡幅工事と、増えた自動車の排気ガスが、桜の衰えに拍車をかけたと書いています[2]。1963年ごろには、安全のために堤に柵が設けられ、以前のような花見の場所ではなくなりました[2]。
あのころの堤を、小金井市の計画はこう描いています。昭和30年代までのヤマザクラは、堤の両岸に8〜10mおきに一列に植えられ、堤に柵はなく、花見客が憩える広い場所がありました[2]。いまの堤では、桜は柵の向こうに立ち、人は柵の外の緑道を歩きます。花の下にござを広げた景色は、写真の中にしかありません。
そして、水が止まりました。1965年に淀橋浄水場が廃止され、小平監視所より下流の玉川上水に水が流れなくなります[10]。上水の機能が止まると、水路を清潔に保つための法面の草刈りも行われなくなり、そこからケヤキなどの木が勢いよく育って、草の堤は林に変わっていきました。成長の早い木に日をさえぎられ、桜は弱っていきます[2]。桜を守っていたのは、じつは上水を守るための草刈りだったのです。
人々も手をこまねいていたわけではありません。1968年から1983年にかけて、小金井市観光協会などが柵の内側などに430本を補植し、本数は一時1,000本を超えました。ただしこのとき、カスミザクラやオオヤマザクラ、ソメイヨシノなどがまじったとみられています[2]。2008年の東京農工大学の調査は、このままのペースで枯れ続ければ、当時の855本は41年で全滅する計算になると警告しました[2]。
2011年11月、小金井市教育委員会が小川水衛所から境橋までの桜を数えると、786本でした。1993年からの18年間で、約30%にあたる329本が枯れていました。市ごとに見ると、小平市域で120本(28%)、小金井市域で128本(24%)、西東京市域で18本(38%)、そして武蔵野市域では63本(62%)が失われていました[2]。武蔵野市域の桜は、1993年の102本が2011年には39本。4割足らずしか残っていなかったことになります。
名勝の東の端にあたる武蔵野市の区間は、4つの市のうちで、いちばん高い割合で桜を失った区間でした。桜堤という名前の町のすぐそばで、桜がもっとも速く減っていた。この食い違いは、地名と風景がいつも一緒に生き残るわけではないことを示しています。
6. 桜堤という町と団地——1959年の団地、1962年の町名
では、「桜堤」という町はいつ生まれたのでしょうか。手がかりは団地です。1958年、のちの桜堤団地にあたる「一団地の住宅施設」が都市計画で決められ、1958年から1959年にかけて建設が始まりました。都市計画の上での名前は「武蔵境住宅」です[17]。武蔵野市の年表には、1959年6月に「桜堤公団住宅完成」、7月に「境北出張所設置(後の桜堤出張所)」とあります[16]。
出張所の最初の名前は「境北」でした。町の名前としての「桜堤」が地図に載るのは、その3年後です。1962年4月1日、武蔵野市は全市の町名を整理し、4つの町を13町51丁目に改めました。このとき、それまでの「境」は、新しい「境」1〜5丁目、「境南町」1〜5丁目、そして「桜堤」1〜3丁目に分けられています[15][16]。同じ年の8月には市立桜堤こどもの園が、1966年には市立桜堤小学校が開かれ[16]、新しい町名は暮らしの中に根づいていきました。
桜堤の北の玉川上水は名勝の区間で、武蔵野市が2016年に示した補植の予定図にも「桜堤二丁目」の文字が見えます[20]。町名が上水の桜の堤を思わせることはたしかです。ただ、市がこの町名の由来を明文で説明した資料は、今回の調べでは見つけられませんでした。「桜堤」という名前がだれの提案で、どんな話し合いを経て決まったのかは、町名整理の記録をたどれば確かめられるかもしれない、開かれた問いです。
団地は、そのあと大きく姿を変えました。建て替えの事業は1994年度から2005年度にかけて行われ、いまのUR賃貸住宅「サンヴァリエ桜堤」(1,120戸、敷地約8.05ha)になりました[18][17]。建て替えのときには、団地の中を流れる仙川をよみがえらせ、屋根の雨水を生かしたビオトープの池を中心に、まとまった自然環境が整えられています[19][18]。
2025年3月18日、その団地内の緑地約2.95haが、環境省の「自然共生サイト」に認定されました。集合住宅の中の緑地としては、国内でもめずらしい認定だとURは説明しています[18]。1959年に完成した団地が、66年後には、生き物の暮らしを守る場所として国に認められた。名前の「桜」と「堤」に、もう一つ、水辺の物語が重なったことになります。
7. 並木を取り戻す——補植のルールと「里帰り桜」
失われた並木を取り戻す取り組みは、2010年ごろから本格的に動き出しました。東京都水道局は、都立小金井公園の正門前にあたる新小金井橋から関野橋までの約640mをモデル区間にしました。ヤマザクラに日を当てるために周りの木を切ったり枝を払ったりしたうえで、ヤマザクラを植え足して並木をよみがえらせています[11][2]。名勝の区間全体でも、地元の団体などの求めに応じて、植え足す場所を提供しています[11]。
植え足しには、細かなルールがあります。植えるのはヤマザクラを原則とし、江戸時代に吉野や桜川から移してきた系譜や、品種が多様であるという名勝の指定理由を考えて選ぶこと。既存の桜と競り合わないよう、8〜10mほどの間隔をとること。前に桜があった場所に植えるときは、バラ科の植物などに見られる「いや地」という現象を避けるため、土を改良しておくこと[2]。役割も分かれていて、東京都水道局が日をさえぎる木を切って植える場所を用意し、名勝の管理団体である東京都教育庁が桜の保存と補植を受け持ちます[2]。
武蔵野市の区間でも、動きがありました。2016年11月15日、武蔵野市教育委員会は、東京都教育庁・東京都水道局・武蔵野市が連携して名勝の指定区間で桜を植え足す事業について、近隣の住民向けの説明会の開催を案内しました[20]。小金井市側では、2015年に小金井公園の前の歩道橋が人道橋に架け替えられ、市民の公募で「平右衛門橋」と名づけられました[7]。桜を植えた人の名前が、橋の名前になって堤に戻ってきたのです。
ただ、課題はなお残っています。東京都水道局は2023年の資料で、ヤマザクラの周りの木の伐採や剪定が進まず日当たりを改善できないこと、強い台風による倒木や幹折れの増加、カシノナガキクイムシによる「ナラ枯れ」の広がりを挙げています[11]。木の伐採や植生の管理については、さまざまな意見や要望が寄せられているとも書いています[11]。名勝の桜と、林になった堤の緑と、そこに住む生き物と。どれを優先するのかは、一つの正解では片づかない問いです。
小金井の桜には、遠くからの応援もあります。大正9年(1920年)、岩手県北上市の展勝地の造園にあたって小金井のヤマザクラが植えられ、翌年に開園しました。平成19年(2007年)には北上市から「里帰り桜」として5本の苗木が玉川上水の堤に植えられ、2020年には小金井市から北上市へ記念のヤマザクラが約500km運ばれています[21]。小金井の山桜は、いちど500km北へ旅をして、その子孫が堤に帰ってきました。
調べ学習・自由研究・探究にするなら
名勝「小金井(サクラ)」と桜堤は、江戸の新田開発、明治の鉄道、戦後の道路と団地、いまの自然保護までが、一本の並木の上に重なっている題材です。数字の記録が長く残っていることも、調べ学習に向いています。たとえば、次の問いから始めてみてください。
- なぜ江戸時代の人は、上水の堤に桜を植えたのか。碑文が挙げる効用のうち、どれが本当の目的だったといえるのか。
- 桜を植えるよう命じたのはだれなのか。資料によって名前が違うのはなぜか。
- 名勝の桜を守るために、ほかの木を切ることは正しいのか。景観と緑と生き物のどれを優先すべきか。
- 「桜堤」という町名は、いつ、だれが、どのように決めたのか。
- 1889年の鉄道の開通は、小金井の花見と武蔵境の町をどう変えたのか。
入口になる資料は、文化庁の文化遺産オンラインにある名勝「小金井(サクラ)」の指定の文と、小金井市の「小金井桜のあゆみ」「玉川上水・小金井桜整備活用実施計画」です。東京都水道局が公開している玉川上水の年表も役に立ちます。1926年に東京市が出した『小金井の桜』は、国立国会図書館デジタルコレクションで見られることが小金井市の資料に示されています[6]。町名の決まり方を調べるなら、武蔵野市の町名変更の旧新対照表と市の年表から始め、武蔵野ふるさと歴史館(武蔵野市境5-15-5)や市の図書館の地域資料に当たってください。開館日や利用のしかたは変わることがあるので、最新は武蔵野市の公式サイトで確かめましょう。
現地で観察するときは、柵の内側に入らないこと、枝を折ったり引いたりしないことを守ってください。小金井市の計画は、桜の根元が踏み固められて土の状態が悪くなることも、桜が弱る原因の一つと考えています[2]。根元に近づかず、柵の外の緑道から見るのが、桜にとってもいちばんの協力です。私有地や団地の敷地に入るときは、その場所の決まりに従いましょう。
中学生の自由研究なら、1925年の東京市にならって「橋と橋のあいだの桜を、柵の外から数える」研究ができます。武蔵野市の区間で何本の桜が見えるか、ヤマザクラとそれ以外の桜を見分けられるか、花の時期は木ごとにどれだけずれるかを記録し、表の数字とくらべてみてください。高校の探究なら、「名勝の景観を守ることと、林になった堤の緑を守ることは両立するか」のように、答えが一つに決まらない問いを立ててみてください。東京都水道局や小金井市の計画と、寄せられた意見の記録を読み比べたうえで自分の考えをまとめると、探究が深まります。
総合型選抜の志望理由書や探究の記録に使うなら、調べたことを、自分の問いに変えることが大切です。「桜堤という名前の町のそばで、桜がいちばん速く減っていた」という事実から、問いを広げてみます。地名はだれのために残るのか。景観はだれが守るのか。そう考えていけば、それは歴史学、都市計画、環境学、法律学のどれにもつながる入口になります。身近な並木の数字を自分の足で確かめた経験は、面接でも自分の言葉で語れる材料になります。
武蔵境の教室から
武蔵野個別指導塾は、武蔵境駅nonowa口から徒歩30秒の教室で、講師1人に生徒1人の完全1対1で授業をしています。総合型選抜は代表の宮川が専任で担当し、探究のテーマをどう立てるかから、志望理由書の組み立て、面接の準備までを一緒に考えます。かつて花見客が降り立った武蔵境の駅前で、町の歴史から自分の問いを見つけるお手伝いができればと考えています。総合型選抜の準備に興味がある人は、総合型選抜(旧AO)入試対策のページを見てみてください。
特集「武蔵野を調べる」の1本です
武蔵境・武蔵野市を一次資料から掘る9つの題材と、調べ学習・探究の進め方は総合案内にまとめています。あわせて読む: 境浄水場の水は武蔵野市に届く?玉川上水・千川上水と武蔵野の水の道・国木田独歩『武蔵野』と武蔵境・桜橋の碑——夏に来て「桜は春咲く」と笑われた独歩
よくある質問
桜堤という地名はいつからありますか?
桜堤は、1962年4月1日の武蔵野市の町名整理で、それまでの「境」から分かれて生まれた町名です。このとき境は、境・境南町・桜堤の3つの町に分けられました。
名勝「小金井(サクラ)」はいつ指定されましたか?
名勝「小金井(サクラ)」は、1924年(大正13年)12月9日に国の名勝に指定されました。指定の範囲は小金井市・小平市・西東京市・武蔵野市の4市にまたがっています。
玉川上水の桜は誰が植えましたか?
玉川上水の桜は、元文2年(1737年)ごろ、武蔵野新田の世話役だった川崎平右衛門らが、新田のにぎわいのために吉野や桜川から山桜を取り寄せて植えたと伝えられています。西東京市は、大岡越前守忠相の命によるものと説明しています。
武蔵野市の中に名勝「小金井(サクラ)」の区間はありますか?
あります。武蔵野市では、玉川上水の境橋から西の両岸が名勝の指定範囲に入っています。2011年の調査では、武蔵野市域の桜は39本でした。
小金井の桜はいま何本くらいありますか?
2011年11月の小金井市教育委員会の調査では、小川水衛所から境橋までで786本でした。名勝に指定された翌年の1925年に数えられた1,468本の、およそ半分です。
出典
- 文化庁 文化遺産オンライン「小金井(サクラ)」 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/216129
- 小金井市「玉川上水・小金井桜整備活用実施計画」(2012年3月) https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/sakuraayumi/meishoukoganeihukkat.files/seibikatuyoujissikeikakuH243.pdf
- 小金井市「小金井桜のあゆみ(1)」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/sakuraayumi/koganeibasi1.html
- 小金井市「小金井桜のあゆみ(2)」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/sakuraayumi/koganeibasi2.html
- 小金井市「小金井桜のあゆみ(3)」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/sakuraayumi/koganeihashi4.html
- 小金井市文化財センター「小金井市文化財センター通信 No.5」(名勝指定100周年 臨時特集) https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/oshirase/bunkazaimagazine.files/bunkazaimagazine005.pdf
- 小金井市・小平市「こだいら・こがねい文化財めぐり」資料(2024年11月30日) https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/oshirase/bunkazaimeguri.files/R06shiryo.pdf
- 国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所「あばれ多摩川発見紀行 多摩川流域新田開発の功労者」 https://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/use/panph/kyusan/09person.htm
- 西東京市「国指定名勝 小金井サクラ」 https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/rekishi_bunka/bunkazai/kunishitei/kunisiteimeishou1.html
- 東京都水道局「玉川上水の沿革(関連年表)」(第1回史跡玉川上水整備活用計画検討委員会 資料、2023年5月23日) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/shiryo03_nenpyo
- 東京都水道局「史跡玉川上水整備活用計画の改定に係る検討状況について」(2023年11月7日) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/01_setsumei
- 東京都 報道発表資料 別紙3「名勝小金井の碑とは?」(2025年11月) https://www.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/tosei/20251110_06_03
- 小金井市「市報こがねい」2026年1月1日号「武蔵小金井駅が100周年を迎えます」 https://www.city.koganei.lg.jp/shisei/461/530/kohokotyo/r8/20260101.files/20250101_120.pdf
- 武蔵野市 広報誌の桜特集(2018年春) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/836/musashino122_002-007_toku1_sai.pdf
- 武蔵野市「住居表示、町名変更の旧新対照表」 https://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_tetsuzuki/todokede_shomei/jukyohyoji/1048124.html
- 武蔵野市「武蔵野市歴史年表 昭和30年~昭和42年」 https://www.city.musashino.lg.jp/shiseijoho/musashino_profile/rekishinempyo/1003303.html
- 武蔵野市「桜堤地区の地区計画について」 https://www.city.musashino.lg.jp/shiseijoho/shisaku_keikaku/toshiseibibu_shisaku_keikaku/machizukuri/toshikeikaku/chikukeikaku/1008485.html
- UR都市機構「「サンヴァリエ桜堤 団地内緑地」環境省の「自然共生サイト」に認定」(2025年3月14日) https://www.ur-net.go.jp/aboutus/press/j2ic97000000fob5-att/ur2025_press_0314_sakurazutsumi.pdf
- UR都市機構「サンヴァリエ桜堤 団地のくらし」 https://www.ur-net.go.jp/chintai/kanto/tokyo/20_5970_report.html
- 武蔵野市教育委員会「名勝「小金井(サクラ)」補植事業に関する説明会について」(2016年) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/500/annai.pdf
- 小金井市「ヤマザクラを岩手県北上市へ搬送しました」 https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/sakuraayumi/sakurakitakami.html
- 東京都水道局「史跡玉川上水の碑」(玉川上水の散策案内) https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/waterworks/shiseki
- 文化庁 文化遺産オンライン「玉川上水」 https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/218289
- 武蔵野市(武蔵野ふるさと歴史館)キッズページ「明治時代の武蔵野村」 https://www.city.musashino.lg.jp/kids/rekishi/1011333.html
この記事の情報は2026年10月時点のものです。
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