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武蔵境の地名の由来は?「境」は何と何の境か、駅が武蔵を名乗った日|武蔵野個別指導塾

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武蔵境の「境」は、何と何の境なのか

武蔵野市の地図を端から端まで探しても、「武蔵境」という町はありません。市の町名は13。駅のまわりは「境」と「境南町」で、少し北西へ行くと「桜堤」になります。「境」の頭に「武蔵」の2文字を載せているのは、町名ではなく駅のほうです[15]。

では、その「境」とは何と何の境なのか。答えは、意外なことに決まっていません。村の名の由来をはっきり書いた江戸時代の記録は見つかっておらず、昭和のはじめから少なくとも3つの説が語られてきました。そこへ武蔵野ふるさと歴史館の学芸員が2019年の論考で、4つめの見立てを加えています。年貢を納める百姓が住む「村」の世界と、原野としての「武蔵野」。その境目にあった村だから「境」なのではないか、というのです[1]。いま駅前にビルが並ぶこの場所は、江戸の人から見れば、地図の余白との継ぎ目だったことになります。

駅の名前にも、小さな事件があります。1889年に「境」として開業した駅は、1919年7月1日に「武蔵境」になりました。当時の官報を開くと、その日に名前を変えた「境」は1つではありません。東北の奥羽本線と、鳥取の境線にも「境」駅があり、3つがそろって改名していたのです[11][12]。この記事では、村の名前から駅の名前、そしていまの町名まで、「境」という一文字の来歴を資料でたどります。

一言でいうと(この記事の結論)
武蔵境の「境」の由来を決める江戸時代の記録は無く、1930年の『武蔵野町誌』などが伝える3つの説に、2019年に武蔵野ふるさと歴史館の学芸員が示した「原野・武蔵野との境」説が加わっています。駅は1889年4月11日に甲武鉄道の「境」として開業し、1919年7月1日、奥羽本線と境線の「境」駅とそろって改称されて「武蔵境」になりました。

  1. 境村は1678年(延宝6年)の検地で「府中領境新田」として生まれ、1736年(元文元年)に「境村」へ名を改めた。
  2. 村名の由来には、代官が争いの間を取った説、出雲の神社にちなむ説、「境本」という人名の説、原野「武蔵野」との境の説の4つがある。
  3. 境停車場は1889年、新宿―立川間にわずか5つ置かれた停車場の一つで、地元の人々の誘致があった。
  4. 1919年7月1日、奥羽本線・中央本線・境線の3つの「境」駅が、羽後境・武蔵境・境港へ同時に改名した。
  5. 1962年(昭和37年)の町名整理を経て、境・境南町・桜堤などいまの町名が決まった。

1. 境村は「新田」として生まれた

まず、村ができた順番から見ておきます。いまの武蔵野市にあたる吉祥寺・西窪(西久保)・関前・境の4つの村は、17世紀半ばにまとめられた『武蔵田園簿』という台帳に、名前がありません。どれも江戸時代の前半に、原野を拓いて生まれた新しい村です[1]。4村全体の成り立ちは長くなるので、ここでは境に絞ります。

境村が記録にはっきり現れるのは、延宝6年(1678)3月です。代官の野村彦太夫による検地、つまり田畑の広さと持ち主を確かめる調査を受け、その検地帳の表紙には「府中領境新田」と書かれました[1]。最初の名前は「境村」ではなく「境新田」。しかも、江戸時代の前半には府中領に属していました。のちに吉祥寺や関前と同じ枠でくくられる村が、出発点では府中の側を向いていたわけです。

村の形も、ほかの3村とは違いました。吉祥寺・西窪・関前は、五日市街道をはさんで家・畑・雑木林が細長く並ぶ短冊形の地割で知られます。境村にはそうした整った地割がなく、村の中は大まかに3つの集落に分かれていました[1][16]。『日本歴史地名大系』は、その3つを次のように挙げています。出雲国松江藩の松平家の御用屋敷(下屋敷)の跡を拓いた地区は、いまの境南町一帯。保谷村の農民が拓いた地区は、いまの中央線の北側。檜原村の人里(へんぼり)という山あいから移ってきた人たちが拓いた地区は、いまの境五丁目付近です[3]。大名の屋敷跡を拓いた人、隣村から来た農民、西多摩の山あいから来た人。出どころのばらばらな人たちが、一つの村になりました。

始まりの人物として名前が残るのが、上保谷村から移った下田三右衛門です。松江藩の屋敷跡を拓いて境新田を開いたと伝わります。三右衛門は村に寺を開きたいと願って土地を用意していましたが、果たせないまま天和2年(1682)に亡くなり、その場所に葬られました。子と婿養子が追善のために阿弥陀仏の石像を建て、のちにその場所が観音院になったと、市の文化財の解説は書いています[3][5]。開拓者の願いは、本人が亡くなったあとで形になりました。境の歴史は、一人の開拓者の供養から語りはじめることができます。

境村には、もう一つ特別な点がありました。玉川上水からの分水です。吉祥寺・西久保・関前の村々には、上水から水を分けてもらうことが認められていませんでしたが、境村は分水を引いていました[1]。水を得にくい武蔵野台地の上で、水路の水を使えるかどうかは暮らしの土台にかかわります。上水そのものの話は長くなるので、ここではこの一点だけにしておきます。

そして元文元年(1736)、名前の入れ替えが起こります。武蔵野の新田全体で行われた検地で、新しく「境新田」が生まれ、それまでの「境新田」は「境村」に名を改めました[1][4]。本家が「境村」と名乗り直し、「境新田」の名札は新しくできた分家に渡された、という形です。新しい境新田は、のちに本村から分かれて独立しようとしたり、本村ともめたりしています[4]。名札を譲った側と譲られた側の関係は、すんなりとはいかなかったようです。

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2. 「境」は何と何の境か——4つの説

村の名の由来について、文献でたどれる説は3つあります。昭和5年(1930)12月の『武蔵野町誌』が載せた「代官命名説」と「擬出雲境説」、そして昭和23年(1948)に武蔵野市役所が出した藤原音松『武蔵野史』の「境本絺馬太夫説」です。歴史館の学芸員は2019年の論考「境村村名考」で、この3つを並べて検討しています[1]。

説1 代官が「間」を取った

一つめは、村の中の争いから名前が生まれたという話です。保谷村から移ってきた下田一族が力をつけ、三右衛門が名主になったころ、村の名前を決める話し合いが開かれた。下田の側は「三右衛門新田」、先に住んでいた「六人衆」は「出羽新田」を主張して譲らない。そこで代官の野村彦太夫が仲裁に入り、両方の案を取り下げさせて、その中間をとって「堺」(のちに「境」)と名付けた、というものです[1]。

もめたら真ん中を取る。いまの学級会でもよく見る決着です。ただ、「三右衛門」と「出羽」の真ん中が、なぜ「さかい」という言葉になるのか。話としてはよくできていますが、そこに説明はありません。

説2 出雲の「境」にちなむ

二つめは、村の鎮守である杵築神社(いまの杵築大社)から来たという説です。出雲の国の境にある大社の末社にあたる神社を、村の恩人である松江藩主の松平家がまつった。その神への信仰が農民の間に広がり、誰が言いだすともなく村の名になった、という筋書きです[1]。

説3 「境本」という人の名から

三つめは、人の名前に由来するという説です。松江藩の御用屋敷が貞享年間(1684〜1687)に廃止されたとき、屋敷を預かっていた境本絺馬太夫が開墾を始めた。その「境本」の「本」を省いて「境新田」と呼び、のちに「境村」となった、というのです[1]。

3つの説への疑問

実は、『武蔵野町誌』自身が、説1と説2について「単に伝説乃至憶測に過ぎず」と書いています[1]。説を載せた本が、その説を伝説だと断っているのです。説3にも弱点があります。境村は延宝6年(1678)の時点ですでに検地を受けた幕府領で、そのあとの貞享年間に開墾を始めたという境本が村の名のもとになったとは考えにくい。学芸員は、「境」という村名と、村の中の「本村」という字名を、藤原音松がつなげて「境本」としたのではないか、とまで推し量っています[1]。

説4 原野「武蔵野」との境

そのうえで論考が示すのが、四つめの見立てです。境村の名は「武蔵野との境」に由来するのではないか。幕府が公に認めた村、つまり年貢を負担する百姓が住む領域と、原野である武蔵野。その境界にある村落だから「境」だ、という考え方です[1]。

手がかりはいくつかあります。江戸後期の「武蔵野小金井桜順道絵図」には、関前新田のあたりに朱の線が引かれ、「朱引ノ内武蔵野新田入口ナリ」と書き込まれています。その朱線の、玉川上水をはさんだ向かい側にあるのが境村です[1]。さらに時代をさかのぼる寛文10年(1670)2月の「高井戸札野新田開発請状」には、新しい村を「武蔵野境ニ二村」つくるという一文があります。この2村は、いまの関前のあたりと、三鷹市上連雀のあたりにできた新田を指すと考えられ、当時はそのあたりが「武蔵野」との境目と見られていた、と2022年の歴史館だよりの論考は読んでいます[2][9]。境村の検地は、それより8年遅い延宝6年(1678)。武蔵野の開発の最前線は、時代とともに少しずつ西へ動いていったと考えられます[2]。

ただし、学芸員自身が書いているとおり、村の名の由来をはっきりさせる史料は一般に残っておらず、境村も例外ではありません[1]。4つめの説も、学芸員が「考えてみたい」と書くとおり、決め手のある結論ではなく見立てです。それでも、この見立てには一つの力があります。「境」という字が、ここが江戸の暮らしの外縁だったことを、340年以上たったいまも名乗り続けている、と読めるからです。駅前の雑踏の足もとに、かつての「世界の端」が埋まっている。そう考えると、毎朝の改札の景色が少し違って見えます。

3. 出雲の神社と、境の「富士山」

説2と説3に登場する杵築大社は、いまも境南町にあります。松江藩の屋敷の中に、藩の領地である出雲の杵築社を勧請してまつったのが始まりと伝わります[1]。本家にあたる出雲の杵築大社は、1871年に名を「出雲大社」に改めました[7]。つまり境南町の神社は、本家が名を改めたあとも、改める前の本家と同じ「杵築大社」の名を名乗っていることになります。明治2年(1869)の村の帳面にも、字のひとつとして「杵築大社御除地」、つまり年貢のかからない社の土地が記されています[1]。

境内には、もう一つの見ものがあります。明治14年(1881)5月に築かれた富士塚、市の文化財の名でいう「杵築大社の富士山」です。境村をはじめ、埼玉県の安松村(いまの所沢市)まで含む近くの22の町や村の富士講が力を合わせてつくったもので、三多摩では清瀬市中里の富士塚に次ぐ大きさとされ、1972年に市の史跡に指定されました[6]。本物の富士山へお参りに行く前、講の人々はこの山に祈ってから出発し、境の人々は毎月17日にここへ集まって祈ったと、市の解説は書いています[6]。出雲の神と富士の神が、一つの境内に同居している。遠くの信仰が、ここで出会っているのです。

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4. 1889年、村に「境停車場」ができた

明治22年(1889)4月、町村制の施行で、吉祥寺・西窪・関前・境の4村と井口新田の飛び地が合わさり、武蔵野村が生まれました。人口は約3,000人です[17]。その同じ月の11日、甲武鉄道(いまのJR中央線)の新宿―立川間が開業します。開業時の停車場は新宿・中野・境・国分寺・立川の5つだけで、新宿から立川までを1時間で結んでいました[8][9]。

この5つの中に「境」が入ったのは、偶然ではありません。武蔵野ふるさと歴史館は、境停車場ができた背景に境の人々の誘致活動があったと書いています[9]。運動を担ったのが、江戸時代に境村の村役人を務めた秋本家の、二代の秋本喜七です。そのうちの喜七は明治33年(1900)から武蔵野村長を務め、大正期には衆議院議員にもなりました[1][10]。秋本家に伝わった8,274点の古文書には、甲武鉄道の敷設や境停車場の誘致に関する史料も含まれ、市の文化財になっています[5]。

鉄道はもともと、多摩で産出される石灰や生糸を運ぶために計画されました。けれども甲武鉄道の会社は、沿線の名所を宣伝して観光客を呼び込みます。玉川上水の小金井桜の季節には臨時列車が走り、東京からの花見客は境停車場で降り、上水沿いを歩いて、国分寺停車場から帰るのが代表的なコースだったようです[9]。境は、花見の入口の駅でした。

開業から10年たった明治32年(1899)5月、境の人々は一つの石碑を建てます。「武蔵野八景碑」です。富士の峰の雪晴れ、玉川上水、小金井の花、武蔵野の月・雪・朝日。そうした景色と並んで、八景のうちの2つに「境驛鉄道」「境驛公園」が選ばれ、それぞれの景色を詠んだ、合わせて223字の漢詩が刻まれました[5]。開業10年の停車場が、富士の雪と同じ列に並んだわけです。村の人にとって、駅は便利な施設である前に、自慢の景色でした。

5. 1919年7月1日、3つの「境」がそろって名前を変えた

境停車場からは、1917年10月22日に多摩鉄道(いまの西武多摩川線)の線路も延び、北多磨(いまの白糸台)まで開業しました[13]。その2年後、駅の名前が変わります。

大正8年(1919)5月28日の官報に、鉄道院総裁・床次竹二郎の名で、次の告示が載っています。「大正八年七月一日ヨリ停車場名ヲ左ノ通改稱ス」。続く小さな表には、3つの駅が並んでいます[11]。

所属する線 それまでの駅名 改めた駅名
奥羽本線 境 羽後境
中央本線 境 武蔵境
境線 境 境港

武蔵境には「むさしさかひ」と、旧かなのふりがなが振られています[11]。東北の奥羽本線と、山陰の境線にも「境」駅がありました。境線は1902年に開通した山陰地方で最初の鉄道で、起点の駅は「境」と名乗っていました[12]。同じ名前の駅が全国に3つ。そのうち2つには旧国名の「羽後」と「武蔵」が頭に付き、鳥取の駅には「港」が付きました。

告示そのものは、改称の理由を書いていません。けれども、同じ日に、同じ名前の3駅が、それぞれ別の名前に改められた。この並び方を見れば、同じ名の駅を見分けるための改称と読むのが自然です。駅名の「武蔵」は、誇らしい冠というより、同姓同名を区別するための名札として付いたのです。

おもしろいのは、その後です。駅は「武蔵境」になりましたが、地元の地名は「境」のまま残りました。いまも住所は「境」、駅は「武蔵境」。1899年の八景碑に刻まれた駅の名も、もちろん「境驛」のままです[5]。石は、改名の告示を読んでいません。

6. 境南町と桜堤——いまの町名が決まるまで

いまの町名が決まったのは、ずっと後の昭和37年(1962)です。武蔵野ふるさと歴史館は2017年の企画展で、町名整理が現在の形に落ち着くまでの流れと、「幻で終わったさまざまな町名案」を紹介しました。市の歴史公文書には「武蔵野市町名整理図」の第一次案や第四次案が残っています[14]。少なくとも4つの案を経て、いまの町名にたどり着いたことになります。

「境南町」は、文字どおり境の南です。そしてこの一帯は、江戸時代の前半に松江藩の屋敷跡を拓いた地区にあたります[3]。杵築大社も観音院もここにあります[5][6]。境村の「始まりの場所」が、いまは「南」と名乗っているわけです。

「桜堤」は、元文元年(1736)に生まれた新しい「境新田」の土地にあたります。『日本歴史地名大系』は、この境新田の現在地名を「桜堤一―三丁目など」とし、玉川上水の北側にも及ぶ新田だったと書いています[4]。近くを流れる玉川上水の両岸には、八代将軍吉宗の時代に植えられ、その後も植え継がれてきたヤマザクラが並び、武蔵野市の境橋から小平市の小川水衛所までの約6キロが、1924年に国の名勝「小金井(サクラ)」に指定されました[6]。ただ、「桜堤」という町名を誰がどんな理由で選んだのかは、今回当たった公的な資料では確かめきれませんでした。名前の響きから想像するのはたやすいのですが、裏づけを探すなら、歴史館の町名整理の公文書が最初の当たり先です。

江戸時代の字名も見ておきます。明治2年(1869)の帳面には、境村の字として「水吐境村」「本村」「南台」「西ノ原」「三家」などが、境新田の字として「本村南」「西ノ臺」「西ノ窪」「御上水端」「田無前」が並んでいます[1]。「御上水端」は、その名のとおり上水のほとりの土地でしょう。「田無前」の「前」が何を意味するのかは、関前の「前」と同じく、調べてみる価値のある問いです。字名は、昔の人が自分たちの土地をどう呼び分けていたかの記録です。

あのころ/いま

明治22年(1889) 令和7年(2025)4月1日
地名 武蔵野村の中の境村・境新田の地域 境・境南町・桜堤
駅の名前 境(停車場) 武蔵境
人口 武蔵野村全体で約3,000人 境・境南町・桜堤の3町で40,812人(市全体は148,285人)

明治22年(1889)、武蔵野村が生まれたときの人口は、4つの村を合わせて約3,000人でした[17]。令和7年(2025)4月1日の住民基本台帳では、境が16,326人、境南町が15,359人、桜堤が9,127人。旧境村・境新田の流れをくむこの3つの町だけで、40,812人が暮らしています。面積は3町で2.83平方キロ、市全体(10.98平方キロ)の約4分の1です[15]。花見客を降ろした小さな停車場のまわりに、いまは村まるごとの13倍を超える人が住んでいます。それでも「境」の一字は、江戸の検地帳の表紙から、いまの住所まで受け継がれています。

調べ学習・自由研究・探究にするなら

地名の由来は、答えが一つに決まらない題材です。だからこそ、自分で資料を読み比べ、どの説をどこまで信じるかを考える練習になります。中学生・高校生が「武蔵境」を調べるときの入口を挙げておきます。

当たる資料は、まず武蔵野ふるさと歴史館(武蔵野市境5-15-5、武蔵境駅から徒歩12分)です[20]。この記事で使った「武蔵野ふるさと歴史館だより」は市の公式サイトでPDFが公開されていて、家でも読めます。歴史館は公文書館の機能をもち、町名整理図などの歴史公文書は、条例にもとづいて誰でも利用を申し込めます[18]。開館日や手続きは変わることがあるので、最新は武蔵野市の歴史館のページで確かめてください。武蔵野市立図書館には、明治13年の「迅速測図」や「東京府北多摩郡武蔵野村全図」など、昔の地図を探すための案内があります[19]。1919年の官報は、国立国会図書館デジタルコレクションで画像を見られます[11]。現地では、杵築大社や観音院のある境南町を地図と見比べながら歩くと、江戸の屋敷跡を拓いた地区の広がりを確かめられます。神社や寺は信仰の場なので、境内の決まりに従い、墓地や私有地には入らないでください。

中学の自由研究なら、「4つの説を表にして、それぞれの根拠と弱点を書く」だけで、しっかりした一本になります。高校の探究なら、もう一歩進めて、「なぜ人は地名に由来を求めるのか」「由来が分からないとき、どう書くのが誠実か」を自分の問いにしてみてください。総合型選抜の志望理由書や探究の記録では、調べた事実を並べることより、調べても分からなかったことをどう扱ったかが、その人の考える力を映します。調べたことを、自分の問いに変える。地名は、その練習にちょうどよい大きさの題材です。

武蔵境の教室から

武蔵野個別指導塾は、武蔵境駅nonowa口から徒歩30秒の教室で、講師1人に生徒1人の完全1対1の指導をしています。総合型選抜(旧AO)は代表の宮川が専任で担当し、探究のテーマの立て方から、志望理由書、面接まで一緒に考えます。地元の地名のように、答えが一つに決まらない題材をどう調べ、どう自分の問いにするか。その過程そのものが、選抜で問われる力につながります。詳しくは総合型選抜(旧AO)入試対策のページをご覧ください。

特集「武蔵野を調べる」の1本です
武蔵境・武蔵野市を一次資料から掘る9つの題材と、調べ学習・探究の進め方は総合案内にまとめています。あわせて読む: 武蔵野市の歴史は?吉祥寺も関前も、4つの村の名は「よそ」を指していた・西武多摩川線の歴史——なぜ他の西武線とつながらない?多摩鉄道と砂利の100年

よくある質問

武蔵境の「境」は何と何の境ですか。

はっきりした答えを示す江戸時代の記録はありません。武蔵野ふるさと歴史館の学芸員は2019年の論考で、年貢を負担する百姓が住む村の領域と、原野としての「武蔵野」との境にある村だったから「境」になった、という見立てを示しています。

武蔵境駅はいつから「武蔵境」という名前ですか。

1919年(大正8年)7月1日からです。1889年4月11日に甲武鉄道の「境」停車場として開業し、1919年5月28日の官報に載った鉄道院告示で、奥羽本線と境線の「境」駅とともに改称されました。

なぜ駅名に「武蔵」が付いたのですか。

告示に理由は書かれていません。ただ、同じ日に3つの「境」駅が羽後境・武蔵境・境港へ別々の名に改められたことから、同じ名前の駅を見分けるための改称と読めます。「武蔵」は旧国名の武蔵国です。

境村はいつできましたか。

延宝6年(1678)3月の検地で「府中領境新田」として成立しました。元文元年(1736)の検地で新しい「境新田」が生まれたとき、元の境新田が「境村」に名を改めています。

境南町と桜堤の町名はいつ決まりましたか。

昭和37年(1962)の町名整理で、いまの町名が決まりました。歴史館には「武蔵野市町名整理図」の第一次案や第四次案が歴史公文書として残り、実現しなかった町名案もあったことが分かります。

武蔵境の地名の由来を自由研究で調べるには、どこから始めればよいですか。

武蔵野ふるさと歴史館(武蔵野市境5-15-5)が入口です。「武蔵野ふるさと歴史館だより」は市の公式サイトでPDFが読め、町名整理図などの歴史公文書も申し込めば利用できます。開館日は市の公式サイトで最新の情報を確かめてください。

出典

  1. 武蔵野ふるさと歴史館「武蔵野ふるさと歴史館だより 第4号」(令和元年12月)所収「境村村名考〜武蔵野をめぐって〜」「境村の検地帳と村の構成」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/520/201912_musashino_tayori_004.pdf
  2. 武蔵野ふるさと歴史館「武蔵野ふるさと歴史館だより 第9号」(令和4年3月)所収「千町野の新田村落名における「前」の意味」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/520/202203_tayori_009_ver2-s10.pdf
  3. 平凡社「日本歴史地名大系」境村(東京都:武蔵野市)(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E5%A2%83%E6%9D%91-3022407
  4. 平凡社「日本歴史地名大系」境新田(東京都:武蔵野市)(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E5%A2%83%E6%96%B0%E7%94%B0-3045063
  5. 武蔵野市教育委員会「武蔵野市の文化財」(令和6年3月)有形文化財 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/045/641/202403_musashino_bunkazai_ver2-s_02_yukei.pdf
  6. 武蔵野市教育委員会「武蔵野市の文化財」(令和6年3月)史跡・天然記念物・名勝 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/045/641/202403_musashino_bunkazai_ver2-s_04_tennen.pdf
  7. 観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「簡単な歴史とストーリー」(出雲大社) https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R3-00185.html
  8. JR東日本「JREメディア」中央線(新宿〜八王子間)開業135周年の記事 https://media.jreast.co.jp/articles/1580
  9. 武蔵野ふるさと歴史館「武蔵野ふるさと歴史館だより 第7号」(令和3年3月) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/520/202103_tayori_007_2-s4.pdf
  10. 武蔵野ふるさと歴史館「武蔵野ふるさと歴史館だより 第5号」(令和2年3月) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/520/202003_musashino_tayori_005.pdf
  11. 国立国会図書館デジタルコレクション「官報」第2043号(1919年5月28日)鉄道院告示第27号 https://dl.ndl.go.jp/pid/2954157/1/5
  12. JR西日本「再訪 沿線点描 境線 米子駅〜境港駅(鳥取県)」 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/19_vol_187/area/
  13. 西武鉄道 ニュースルーム「多摩川線 全線開通100周年」(2022年) https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20220620_tamagawa100/
  14. 武蔵野ふるさと歴史館「平成29年度 第2回企画展」案内 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/016/734/maboroshiten.pdf
  15. 武蔵野市「市政統計」令和7年版(町別の人口及び世帯数の推移) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/041/167/2025.zenbun/2025shiseitoukei-zenbunR7.pdf
  16. 武蔵野市「武蔵野市生物多様性基本方針」第3章 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/016/539/06.pdf
  17. 武蔵野市「季刊むさしの」139号(2022年)「11月3日は市制施行の記念日です」 https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/039/840/139_topics1.pdf
  18. 武蔵野市「公文書館機能」(武蔵野ふるさと歴史館) https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/furusatorekishikan/1040989.html
  19. 武蔵野市立図書館「おしえてむさしの No.3 武蔵野市の地図をさがす」(平成25年3月) https://www.library.musashino.tokyo.jp/images/upload/teachme03.pdf
  20. 武蔵野市「武蔵野ふるさと歴史館(施設案内)」 https://www.city.musashino.lg.jp/heiwa_bunka_sports/furusatorekishikan/1007244.html

この記事の情報は2026年10月時点のものです。

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