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【世界史探究】19 世紀のヨーロッパを図解で総まとめ—自由主義 国民主義 1848 年革命 イタリア ドイツの統一|武蔵野個別指導塾

七月革命と二月革命の違いから、クリミア戦争、イタリアとドイツの統一までを3枚の図でたどります。年代整序と短い論述の例題を通じ、革命と国家統一を因果関係で説明する力を養えます。
よくあるのは、体育館の隅のタイム表を眺めながら世界史の小テストを見直し、「1830年も1848年もフランスで革命が起きたのに、なぜ片方は王政で、もう片方は共和政なのか」と手が止まる場面です。競技の開始時刻なら順番に並べられるのに、革命の年号は覚えても、その前後で何が変わったのかがつながらないのです。
19世紀のヨーロッパを読むときは、出来事を早い順に置くだけでなく、「誰が、どの仕組みを、何のために変えようとしたか」を添えます。自由主義は政治の自由や憲法を、国民主義は国民としてのまとまりや独立・統一を求める動きです。同じ革命に参加していても、参加者全員の目標が同じだったわけではありません。
ウィーン体制からドイツ統一までを追うと、市民の革命、労働者の要求、王国の外交と戦争が交差していたことが見えてきます。目標と担い手を区別できれば、年号の問題だけでなく、「革命が挫折した後に、なぜ統一が進んだのか」という説明にも取り組めます。
この単元で身につけること
- ウィーン体制の原則を説明します。正統主義と勢力均衡を区別し、王朝の秩序を守る国際体制と、自由や独立を求める運動が衝突した理由を押さえます。
- 自由主義と国民主義を使い分けます。憲法や議会を求めることと、民族の独立や国家の統一を求めることは、重なる場合があっても同じ要求ではありません。
- 七月革命と二月革命を比較します。倒された王、成立した政体、政治参加の範囲をセットにして、フランス政治の変化を説明します。
- 1848年革命とクリミア戦争の役割を分けます。国内の革命運動の挫折と、列強の協調関係の変化を、それぞれ統一への道に結びつけます。
- イタリアとドイツの統一を比較します。中心になった国、政治家、協力者や対戦相手を確かめ、建国と領土の編入を区別して年代を整理します。
前の単元で学ぶフランス革命による身分制への批判と、産業革命による市民層・労働者層の拡大が、この単元の政治運動の背景になります。人権や国民主権という理念が広がる一方、誰に選挙権を認めるか、国家の境界をどう定めるかについては対立が続いた、とつなげて考えます。
基本の考え方
ウィーン体制と、それに向き合う2つの要求
ナポレオン没落期の1814年から1815年に開かれたウィーン会議では、ヨーロッパの秩序が再編されました。オーストリアの外相メッテルニヒが中心的な役割を果たし、フランスのタレーランは正統主義を主張しました。正統主義は、革命やナポレオンによって倒された王朝の支配を正当なものとして回復する考え方です。ただし、すべての領土や制度が革命前にそのまま戻ったわけではありません。
もう1つの原則である勢力均衡は、特定の国が強くなりすぎないよう、列強の力の釣り合いを保つ考え方です。正統主義が「誰の支配を正当とするか」という説明なら、勢力均衡は「国どうしの力をどう配置するか」という問題です。両者をまとめて「昔に戻す」とだけ覚えると、領土の再編や外交上の判断を読み落とします。
この秩序を支えたのが、神聖同盟や四国同盟などの枠組みでした。神聖同盟はロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱により結ばれ、四国同盟はイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる協調の枠組みでした。ただし、各国の利害が完全に一致していたわけではなく、イギリスは大陸諸国の革命への干渉と距離を置くようになります。ウィーン体制は、一枚岩の組織ではなく、列強が秩序維持のために協調する国際体制として理解します。
これに対して広がった自由主義は、言論・出版などの自由を保障し、憲法や議会によって君主の権力を制限しようとする考え方です。ここで注意したいのは、自由主義者が必ず普通選挙を求めたわけではない点です。財産をもつ市民が政治を担うべきだと考える人々もおり、財産などで選挙権を制限する制度と結びつくこともありました。
国民主義は、共通の言語や文化、歴史などをもつ人々が国民としてまとまり、独立や統一を求める考え方です。複数の国に分かれていたイタリアやドイツでは統一に、他の王朝の支配下にあった地域では独立に結びつきました。ただし、言語や文化の境界と国境は自然に一致するものではなく、同じ地域に複数の集団が住む場合には要求が衝突します。
たとえば、ある地域の議会が「出版を自由にしたい」と求めるなら自由主義の面が強く、「別の王国の支配を離れて独立したい」と求めるなら国民主義の面が強いと判断できます。独立後に憲法を定めたいという運動なら、両方の性格をもっています。要求を一つずつ言葉に分けることが、用語の丸暗記から抜け出す方法です。
七月革命から1848年革命へ
ウィーン体制への抵抗は、各地で同時に同じ結果を生んだわけではありません。1821年に始まったギリシアの独立戦争は、列強の支援や介入を受け、1830年の独立承認につながりました。列強が国民主義運動を常に同じ態度で抑えたのではなく、自国の利害や世論に応じて対応した点が大切です。
フランスでは、復古したブルボン朝のシャルル10世が反動的な政治を進め、出版や議会への制限を強めました。これに対して1830年の七月革命が起こり、シャルル10世は退位しました。その後はルイ=フィリップを王とする七月王政が成立しました。王が交代しても王政は残り、財産による厳しい制限選挙のもとで富裕な市民層が政治の中心を占めました。
七月革命の影響は国外にも及び、ベルギーはオランダから独立しました。一方、ポーランドで起こった蜂起はロシアに鎮圧されました。同じ年ごろに国民主義が高まっても、その運動の成功は、支配国の軍事力や列強の対応によって異なったのです。「革命が広がった」と「革命が成功した」を別々に確認します。
1848年、フランスでは選挙権の拡大を求める運動が強まり、改革を求める宴会の禁止をきっかけに二月革命が起こりました。ルイ=フィリップが退位し、第二共和政が成立して男子普通選挙が導入されます。「普通選挙」という語だけで、女性も含むすべての成人に選挙権があったと判断しないようにします。
第二共和政の内部では、政治的な自由を重視する市民層と、生活や働く権利の保障を求める労働者層の対立が深まりました。失業者対策として設けられた国立作業場が閉鎖されると六月蜂起が起こり、鎮圧されました。同年、大統領に選ばれたルイ=ナポレオンは、1851年にクーデタを行い、1852年にはナポレオン3世として皇帝に即位し、第二帝政を成立させました。
図1のように、1815年、1830年、1848年を共通の時間軸に置くと、ウィーン体制の成立から革命の広がりまでを見渡せます。図の間隔は経過年数に比例していますが、どの出来事が何を引き起こしたかは、間隔だけでは判断できません。

1848年の革命はウィーンやベルリンなどにも広がりました。ウィーンではメッテルニヒが失脚し、ドイツではフランクフルト国民議会が統一憲法を検討しました。しかし、参加者は統一の範囲や政治の仕組みをめぐって対立し、プロイセン王は議会から提示された皇帝位を拒否しました。革命運動は各地で抑えられ、議会を中心とする統一は実現しませんでした。
この一連の動きは「諸国民の春」とも呼ばれます。諸民族の要求が表面化した一方、ハプスブルク家の支配する多民族地域では、それぞれの民族運動の利害が衝突することもありました。革命の挫折は自由主義や国民主義の消滅を意味しません。その後、国家の軍事力や外交を使う統一が進む点が、次の重要な変化です。
クリミア戦争が統一の条件を変える
1853年から1856年のクリミア戦争では、オスマン帝国と対立したロシアに対し、イギリスやフランスがオスマン帝国側に立って参戦しました。背景には、衰えつつあったオスマン帝国の領土や勢力圏をめぐる東方問題があります。宗教上の争点だけでなく、ロシアの南下を警戒する列強の利害を合わせて考えます。
サルデーニャ王国もオスマン帝国側に加わりました。首相カヴールには、列強の外交の場でイタリア問題を取り上げてもらうねらいがありました。クリミア半島での戦争とイタリア統一が結びつくのは、両者の場所が近いからではなく、参戦を外交上の発言力につなげようとしたためです。
ロシアの敗北後、1856年にパリ条約が結ばれました。オーストリアはロシアに圧力を加えたため、両国の関係も悪化しました。1848年の革命を抑える際には協力した保守的な大国どうしの関係が変わり、従来の列強の協調は弱まります。統一運動の成否を考えるときは、国内の熱意だけでなく、周囲の大国が介入できるか、味方を得られるかという条件も見る必要があります。
例題で解き方を確かめる
例題1 2つの革命を政体から見分ける
問題です。次の学習用の整理文A・Bにあてはまる革命名を答え、その直後に成立した政体の違いを説明しましょう。Aは「シャルル10世が退位し、ルイ=フィリップが王となった」、Bは「ルイ=フィリップが退位し、男子普通選挙が導入された」です。
- 倒された人物に注目します。革命後の制度だけで判断するより、シャルル10世とルイ=フィリップという交代の前後を確かめると、2つの革命を区別しやすくなるためです。
- 革命の名称と年を対応させます。Aは1830年の七月革命、Bは1848年の二月革命であり、七月と二月を同じ年の出来事として並べないために年も添えます。
- 王が残ったかを確認します。Aでは新しい王が即位し、Bでは王政が廃止されたので、人物交代と政体変更を分けて説明できるためです。
七月革命は、革命という名称でも共和政を成立させた出来事ではありません。また、二月革命の結果をいきなり第二帝政と書くと、第二共和政とルイ=ナポレオンの大統領就任を飛ばしてしまいます。間の政体を一つずつ置けば、ナポレオン3世がどの立場から権力を強めたかも説明できます。
答え:Aは七月革命で立憲君主政の七月王政が成立し、Bは二月革命で第二共和政が成立しました。
例題2 イタリア統一の段階を並べる
問題です。ア「イタリア王国成立」、イ「ローマ編入」、ウ「ガリバルディが南部を征服してサルデーニャ王に献上」、エ「ヴェネツィア編入」を早い順に並べ、王国成立からローマ編入までの年数を求めましょう。
- 統一の中心国を確かめます。サルデーニャ王国の首相カヴールによる外交と、ガリバルディによる軍事行動を区別すると、南部の征服が王国成立に先立つことを判断できるためです。
- 各出来事に年を置きます。ウは1860年、アは1861年、エは1866年、イは1870年であり、建国の年をすべての領土がそろった年と混同しないためです。
- 年代順に並べてから差を求めます。年数は1870 − 1861 = 9で、出来事の順序と経過年数を別々に確認すると数え違いを防げるためです。
背景もつないでおきます。マッツィーニは青年イタリアを組織し、共和政による統一をめざしましたが、その構想はそのまま実現しませんでした。統一の中心となったサルデーニャ王国は、1859年にフランスと協力してオーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得しました。カヴールは外国の協力を得る外交を進め、その過程でサヴォイアとニースはフランスに割譲されました。
ガリバルディは義勇軍を率いてシチリア島と南イタリアを征服し、獲得した地域をサルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上しました。共和主義の立場をもつ人物の行動が、王政による統一に合流したところが重要です。1861年にイタリア王国が成立しても、ヴェネツィアとローマはまだ含まれていませんでした。
図2のように、建国を途中の段階に置くと、統一を一度の戦争で完成した出来事として覚えずにすみます。図は出来事の順序を示す模式図で、箱の間隔は経過年数を表していません。

1866年には普墺戦争でプロイセン側に立ち、戦後にヴェネツィアを獲得しました。1870年には普仏戦争によってローマに駐留するフランス軍が引き揚げたことを受け、ローマを編入しました。イタリアの変化を説明する際にも、ドイツ方面の戦争とフランスの動きを見る必要があります。
答え:ウ → ア → エ → イの順で、王国成立からローマ編入までは9年です。
例題3 ドイツ統一の中心と範囲を説明する
問題です。「1834年に発足したドイツ関税同盟はプロイセンを中心とし、オーストリアは参加しなかった」という整理文を読み、関税同盟の役割と、後の小ドイツ主義による統一の範囲を説明しましょう。
- 関税という語の意味を確かめます。商品が国境を越える際の負担に関わる制度なので、まず経済上の結びつきの話だと判断するためです。
- 中心国と不参加の国を対にします。プロイセンとオーストリアは統一の主導権を争うため、両国をまとめて「ドイツの国」と扱わないことが必要です。
- 経済上の連携と政治上の統一を分けます。関税同盟の成立時点では各国の君主や政府が残っていたので、1834年を統一国家の成立年にしないためです。
ドイツ関税同盟は域内の交易を促し、プロイセンの経済的な影響力を強めました。一方、統一の範囲をめぐっては、オーストリアを含める大ドイツ主義と、オーストリアを除いてプロイセン中心に進める小ドイツ主義が対立しました。後に実現したのは小ドイツ主義の方向です。ただし、関税同盟だけで政治統一が自動的に決まったのではなく、戦争や外交による決着を経ています。
答え:関税同盟は交易を促してプロイセンの経済的影響力を強め、小ドイツ主義はオーストリアを除くプロイセン中心の統一をめざしました。
例題4 革命の挫折と国家統一をつなぐ短い論述
問題です。1848年のドイツ統一運動が挫折したことと、1871年にドイツ帝国が成立したことは矛盾するでしょうか。「議会」「プロイセン」「ビスマルク」の3語を使い、統一の担い手と手段の変化を説明しましょう。
- 1848年の試みの主体を特定します。フランクフルト国民議会が統一憲法を検討したことを押さえると、挫折したのがどの方法だったかを限定できるためです。
- 後の統一を進めた人物と国家を特定します。1862年にプロイセン首相となったビスマルクを置くことで、議会の討議と国家の政策を区別できるためです。
- 実現の手段を書き添えます。ビスマルクが軍備拡張を進め、外交と戦争を用いたことを書けば、単に「後で成功した」という説明を超えて変化を示せるためです。
ビスマルクの鉄血政策は、統一を演説や多数決だけで実現するのではなく、軍事力を重視して進めようとする姿勢を表します。ただし、軍事力だけで説明するのも不十分です。対戦相手を外交的に孤立させたり、他国の中立を確保したりする働きかけと結びついていました。
論述では、「1848年の革命が失敗したから国民主義がなくなった」という前提を置かないことが大切です。統一という目標が残る中で、主導権が議会から君主国の政府へ移り、用いられる手段も変わったと説明します。
答え:議会を中心とする統一は挫折しましたが、後にプロイセンのビスマルクが外交と軍事力を用いて統一を進めたため、両者は矛盾しません。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 自由主義なら、全員に選挙権がある
誤った書き方は、「七月王政は自由主義的な王政なので、すべての成人が投票できた」です。どこが違うかというと、君主の権力を制限することと、政治参加の範囲を広げることを同一視しています。七月王政では財産による制限選挙が行われ、政治参加は富裕な市民層に限られていました。
正しい書き方は、「七月王政では自由主義的な政治のもとでも制限選挙が続き、その拡大を求める運動が二月革命につながった」です。二月革命後の男子普通選挙についても、「男子」という条件を落とさず書きます。権力の制限と選挙権の範囲を別の欄に書くと、この混同を直せます。
誤り2 クリミア戦争では、オーストリアとプロイセンが戦った
誤った書き方は、「クリミア戦争でオーストリアがプロイセンに敗れ、ドイツ統一が進んだ」です。どこが違うかというと、1853〜1856年のクリミア戦争と、1866年の普墺戦争を取り違えています。クリミア戦争の中心的な対立はロシアとオスマン帝国側であり、イギリスやフランスなどが後者を支援しました。
正しい書き方は、「クリミア戦争は列強間の協調を弱め、普墺戦争でのプロイセンの勝利はオーストリアを除くドイツ統一へ道を開いた」です。オーストリアとロシアの関係悪化は外交環境の変化であり、オーストリアのドイツ問題からの排除は後の戦争の結果です。この2段階を一本の出来事に縮めないようにします。
誤り3 ドイツ統一の戦争は、相手も結果も同じ
誤った書き方は、「プロイセンはフランスとの戦争だけでドイツ全体を統一した」です。どこが違うかというと、オーストリアと協力した段階、対立した段階、南ドイツ諸国が加わった段階を省いています。図3のように、戦争名と、その後の国家のまとまりを分けて追います。

1864年のデンマーク戦争では、プロイセンとオーストリアが共同でデンマークと戦いました。戦後に得たシュレスヴィヒとホルシュタインの管理をめぐって両国は対立し、1866年の普墺戦争に至ります。プロイセンが勝利するとドイツ連邦は解体し、1867年にはプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立しました。
1870年に始まった普仏戦争では、南ドイツ諸国もプロイセン側に加わりました。フランスではナポレオン3世が捕虜となって第二帝政が崩壊し、共和政が宣言されました。戦争の途中の1871年、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位しました。普仏戦争は1871年まで続くので、戦争終結後に初めて帝国が成立したと書かないようにします。
正しい書き方は、「プロイセンはデンマーク戦争ではオーストリアと協力し、普墺戦争でこれを破り、普仏戦争を通じて南ドイツ諸国も含む帝国の成立を実現した」です。図3の箱は順序を示しており、1864年から1866年の間と、1866年から1870年の間が同じ年数だという意味ではありません。
また、成立したドイツ帝国には憲法や議会がありましたが、皇帝と宰相の権限が強く、宰相は議会に対して責任を負う仕組みではありませんでした。国家の統一が実現したことと、議会中心の政治が実現したことを区別すると、1848年の運動との違いが最後まで明確になります。
練習問題
練習1
「君主の権力を憲法で制限する」という要求と、「複数の国に分かれた人々が1つの国家をつくる」という要求は、それぞれ主に何主義に結びつきますか。2つの要求が同じ運動に含まれることがあるかも答えましょう。
練習2
ア「第二帝政成立」、イ「七月革命」、ウ「二月革命」、エ「ルイ=ナポレオンのクーデタ」を早い順に並べましょう。また、七月革命から二月革命まで何年経過したかを求め、その間続いた政体の名称を答えましょう。
練習3
イタリア王国成立とローマ編入の年をそれぞれ答えましょう。さらに、1870年のローマ編入を可能にした国際情勢の変化を、フランス軍の動きに触れて説明しましょう。
練習4
「1864年の戦争でオーストリアを破ったプロイセンは、1866年にドイツ帝国を建国した」という文の誤りを直しましょう。1864年の協力相手、1866年の戦争名、帝国成立の年を含め、2文以内で書きましょう。
答えと解説
練習1の答えは、順に自由主義、国民主義です。両方の要求が同じ運動に含まれる場合があります。憲法を求めることは政治の仕組みに、国家の統一を求めることは国民と国家のまとまりに関わるため、判断する軸が異なります。
練習2の答えは、イ → ウ → エ → ア、18年、七月王政です。年を置くと1830年、1848年、1851年、1852年となり、1848 − 1830 = 18です。二月革命後にただちに皇帝が現れたのではなく、共和政の大統領となった人物がクーデタを経て皇帝になった順序を確かめます。
練習3の答えは、王国成立が1861年、ローマ編入が1870年です。普仏戦争によってローマのフランス駐留軍が引き揚げたことが、編入を可能にした条件です。建国の年と領土の拡大の年を区別し、イタリア国内だけでなく他国の戦争との関係を説明します。
練習4の答えは、「1864年、プロイセンはオーストリアと協力してデンマークと戦いました。1866年の普墺戦争でオーストリアを破り、その後の普仏戦争中の1871年にドイツ帝国が成立しました」です。1867年に成立した北ドイツ連邦を間に補えると、南ドイツ諸国を含む統一までの段階がより明確になります。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
イタリアとドイツの統一は、ヨーロッパの国際関係を変えました。とくにドイツ帝国の成立は大陸の力の釣り合いを変化させ、後の同盟関係や列強の競争を学ぶ土台になります。ただし、統一から世界大戦までを必然の一直線として読むのではなく、その後の外交や植民地をめぐる対立を一つずつ確かめます。
家で5分使えるなら、1つ目は、紙を左右に分け、1830年と1848年について「倒れた王」「成立した政体」「選挙権」の3項目を書く方法です。名称だけを隠すのでなく、理由を声に出して説明すると、七月革命と二月革命のどこが混ざっているかを見つけられます。
2つ目は、イタリアとドイツの欄をつくり、1866年と1870年を横につなぐ方法です。同じ戦争が別の地域の統一にも影響したことを、ヴェネツィア、ローマ、プロイセンの語を使って説明します。個別指導で説明が止まる場合は、まず王政と共和政、憲法と選挙権の違いまで戻り、その後に人物と年を置き直します。
まとめ
「革命が起こった」という一文だけでは、王が交代したのか、王政そのものがなくなったのか、国家の境界が変わったのかは判断できません。答案の一文を作るときには、変化の前と後を一組にし、その変化を進めた担い手を置きます。すると、1848年の挫折と1871年の統一を、食い違う暗記事項ではなく、方法が変わった歴史として説明できます。
19世紀ヨーロッパの統一とは、国民のまとまりを求める運動が、王国の外交と軍事力によって国家の形へ組み替えられた過程です。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。



