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【小6社会】戦国から江戸時代を図解で総まとめ—天下統一・江戸幕府のしくみ・鎖国と文化|武蔵野個別指導塾

信長・秀吉・家康の役割を図で整理し、参勤交代や鎖国、浮世絵と学問をたどります。例題と練習問題で、人物名の暗記から政治の目的を説明する学習へ進めます。
よくあるのは、放課後の廊下の掲示板の前で、歴史の学習で作った人物カードを見ながら、「信長、秀吉、家康の順は言えるけれど、検地を進めたのはだれだったかな」と止まる場面です。名前と出来事を別々に覚えていると、似た言葉が並んだときに結びつきがほどけます。さらに、天下統一から参勤交代、鎖国、浮世絵へと話が移るため、全部が無関係な暗記事項に見えてしまうこともあります。
この単元をつなぐ問いは、「各地の大名が争う世の中から、幕府が全国を治める世の中へ、何が変わったのか」です。人物の行動を政治の目的に結びつけ、政治を人々のくらしにつなげて考えます。順序を確かめる図、移動を表す図、海外とのつながりを示す図を使うと、同じ矢印でも何を表しているかを読み分けられます。お子さまが短い言葉で理由まで話せることを、学習の目印にしてください。
この単元で身につけること
- 信長・秀吉・家康の役割を区別します。統一を進めた人物、統一を成しとげた人物、江戸幕府を開いた人物を、それぞれの政策と結びつけます。
- 江戸幕府が大名を治めた方法を説明します。武家諸法度や参勤交代を、名称だけでなく、だれに対する決まりかという点から整理します。
- 身分とくらしの関係を読み取ります。武士、百姓、町人などの立場と仕事を押さえ、単純な職業の順位に置きかえずに考えます。
- 鎖国と海外との交流を両方説明します。幕府が貿易や人の出入りを制限したことと、限られた窓口で交流が続いたことをつなげます。
- 江戸の文化と学問をくらしに結びつけます。浮世絵、歌舞伎、蘭学、国学を、楽しむ人や調べる対象の違いから見分けます。
前の単元で学んだ鎌倉幕府や室町幕府と同じく、江戸幕府も武士による政治です。ただし、将軍が全国を治めるために整えたしくみは同じではありません。前の時代の知識は出発点として使い、変化した部分を新しく確かめます。
基本の考え方
天下統一は3人の役割を分けてたどります
室町幕府の力が弱まると、各地の戦国大名が領地を治め、勢力を広げようとして争いました。戦国大名は戦いだけをしていたのではありません。農業や商業を育て、城と城下町を整えるなど、自分の領地を支える取り組みも進めました。天下統一とは、各地に分かれていた支配をまとめ、全国を治めることです。
織田信長は、鉄砲を戦いに取り入れ、対立する勢力をしりぞけて統一を進めました。また、楽市・楽座の政策によって、商人が商売をしやすいようにしました。「楽」という字だけを見て、人々を楽しませる催しだと考えないことが大切です。商売の制限を取り除く政策を、城下町に人や物を集める動きと結びつけます。信長は室町幕府を滅ぼしましたが、全国統一を成しとげる前に本能寺の変で亡くなりました。
信長の後を受けて全国統一を成しとげたのが豊臣秀吉です。秀吉は検地を進め、田畑の面積や土地からとれる米の量、耕作する人などを調べて記録しました。土地のようすを共通の基準でつかむことは、年貢を取り立てる土台になります。検地は、単に地面の広さを測る作業として終わるものではありません。
秀吉は刀狩も行い、百姓などから武器を取り上げました。検地と刀狩を通して、武士と百姓の区別が進みました。武器を集めることと、土地を調べることは別の政策ですが、全国を治めるしくみを整えるという点でつながっています。秀吉は朝鮮へ軍を送りましたが、戦いは朝鮮の人々にも大きな被害をもたらしました。国内の統一と海外への出兵は分けて押さえ、人物の働きを一つの評価だけでまとめないようにします。
秀吉の死後、徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝ち、全国を治める力を強めました。1603年には征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。図1のように、3人を並べるときは名前の下に役割を添えます。この図は順序を示す模式図で、箱の幅や間隔は、それぞれが活動した年数を表していません。

図1の矢印は、統一を進める流れの順序です。信長が幕府を開き、秀吉が参勤交代を定めた、というように政策を入れ替えないためにも、「信長は統一を進める」「秀吉は統一を成しとげる」「家康は江戸幕府を開く」という骨組みを先に作ります。その上で、検地や刀狩などを対応する人物につなげます。
幕府・藩・身分をくらしとつなげます
江戸幕府では、徳川家の将軍が全国の大名を統制しました。大名が治める領地とその支配のしくみを藩といいます。全国の村や町を将軍1人が直接治めたのではなく、幕府が直接治める土地もあれば、各大名が治める土地もありました。幕府と藩は別の言葉ですが、将軍と大名の関係の中でつながっています。
大名には、徳川家の親類である親藩、関ヶ原の戦いより前から徳川家に従っていた譜代、戦いの前後に従うようになった外様という区分がありました。これは性格や能力による分類ではなく、徳川家との関係による区分です。幕府は大名の配置にも気を配り、重要な場所を押さえました。
幕府は武家諸法度を定め、大名の行動を制限しました。城を勝手に修理することや、許可なく大名どうしが結婚することなどを制限したのは、大名が自由に力や結びつきを強めないようにするためです。参勤交代も大名を統制するしくみでした。3代将軍の徳川家光の時代に制度として整えられ、大名は原則として1年おきに江戸と領地を行き来しました。
身分については、まず武士が政治を担い、百姓や町人を支配する立場にあったことを押さえます。百姓は主に村に住み、農業などを営みながら年貢を納めました。町人には商人や職人がいて、物を売ったり作ったりしました。ただし、百姓の仕事がすべて農業だけだったわけではありません。村では漁業や林業、品物の生産や商売に関わる人もいました。
身分によって負担や認められることに違いがあり、住む場所や生活にも制限がありました。また、厳しい差別を受けた人々もいて、皮革の仕事など、社会を支えるさまざまな仕事を担っていました。身分を学ぶときには、当時の区別が存在したという事実と、人の価値を身分で決めることを混同しないでください。「武士・農民・職人・商人の順に、全国一律の4段の階段があった」という図だけでは、実際の社会を十分に表せません。
鎖国のもとでも文化と学問は動いていました
江戸時代のはじめには、日本の船が海外へ出て貿易を行い、東南アジアには日本町もできました。その後、幕府はキリスト教を禁止し、海外への渡航や帰国を制限しました。さらに、ポルトガル船の来航を禁止するなど、対外関係を段階的に制限しました。このような政策を鎖国と呼びます。家康が幕府を開いた瞬間に、すべての交流が止まったと考えるのは誤りです。
長崎ではオランダや中国との貿易が続きました。ヨーロッパの国のうち、貿易を認められたのがオランダです。「貿易の相手はオランダだけ」と書くと、中国との貿易が抜けます。オランダ商館が置かれた出島も、海外とのつながりを考える手がかりです。長崎以外にも対馬藩を通じた朝鮮との交流などがあり、窓口によって相手や交流の形が違いました。
一方、国内では農業や手工業が発達し、街道や海上交通を通じて人や品物が行き交いました。江戸、大阪、京都などの都市が栄え、商人や職人などの町人が文化の担い手になりました。浮世絵には役者や風景、日々のくらしなどが描かれました。木版画では版木を使って同じ絵を何枚も刷れたため、多くの人が絵を手にすることにつながりました。葛飾北斎や歌川広重は、風景を描いた浮世絵でも知られています。
歌舞伎は、舞台上の演技やせりふ、踊り、音楽を楽しむ芸能です。浮世絵に歌舞伎役者が描かれることもあり、絵と舞台の文化は結びついていました。ただし、「浮世絵は見る絵」「歌舞伎は舞台の芸能」という違いは残して覚えます。どちらも城や武具の名前ではありません。
学問では、オランダ語の書物などを通じて西洋の医学や科学を学ぶ蘭学が発達しました。杉田玄白たちは、西洋の解剖書を翻訳して『解体新書』を刊行しました。国学では日本の古い書物が研究され、本居宣長は『古事記』の研究を進めました。また、伊能忠敬は実際に測量を行い、正確な日本地図づくりに取り組みました。寺子屋では庶民の子どもたちが読み書きやそろばんなどを学びました。外国との接触が制限されていても、知識や学びが止まっていたわけではありません。
例題で解き方を確かめる
例題1 人物と政策を組み合わせます
次の3つの説明に当てはまる人物を、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康から1人ずつ選びましょう。アは「楽市・楽座の政策などで商業を盛んにし、統一を進めた」、イは「全国統一を成しとげ、検地や刀狩を進めた」、ウは「1603年に江戸幕府を開いた」です。
- 説明の中から政策や出来事を取り出します。「商業を盛んにした」だけより、「楽市・楽座」まで読むほうが、人物を絞る根拠がはっきりするからです。
- 図1の役割に戻して人物を当てはめます。信長は統一を進め、秀吉は統一を成しとげ、家康は幕府を開いたという順序が、取り違えを防ぐからです。
- イに検地と刀狩がともに入っていることを確かめます。一つの言葉で選んだ後に残りの説明も合っているかを調べると、推測だけの答えを減らせるからです。
ここでは、政策の名前を言えることに加えて、その政策が何をしたものかも確認します。検地なら土地と収穫量などを調べること、刀狩なら武器を取り上げることです。名前の漢字だけから想像せず、短い動作の言葉に直すと人物との結びつきが残ります。
答え:アは織田信長、イは豊臣秀吉、ウは徳川家康です。
例題2 2つの出来事の年の差を求めます
家康が関ヶ原の戦いに勝ったのは1600年、江戸幕府を開いたのは1603年です。先に起きた出来事と、2つの出来事の年の差を答えましょう。ここでは月日を考えず、年号の差を求めます。
- 年号の大小を比べます。西暦では小さい数の年が先なので、1600年の関ヶ原の戦いが先だとわかります。
- 後の年から先の年を引きます。1603 − 1600 = 3なので、年号の差は3年です。
- 年号の差と、年を並べたときの個数を区別します。1600年、1601年、1602年、1603年と書くと年の表示は4個ですが、求めているのは両端の差だからです。
この問題では、「関ヶ原の戦いに勝った年に江戸幕府を開いた」とまとめないことも大切です。戦いに勝って力を強めたことと、将軍となって幕府を開いたことは関係していますが、同じ出来事ではありません。年号を覚え直す前に、出来事の内容が2つに分かれているかを確かめます。
答え:先は関ヶ原の戦いで、年の差は3年です。
例題3 参勤交代の図からしくみと影響を説明します
図2は参勤交代の基本的なしくみを示しています。移動するのはだれか、江戸に住んだ家族はだれか、そしてこの制度が大名の負担になった理由を答えましょう。図は地図ではないため、矢印の長さから実際の距離は求められません。

- 箱の名前を読み、移動の両端を確かめます。図2では「領地」と「江戸」が両端なので、全国を自由に旅する図ではないとわかります。
- 矢印のラベルと江戸の箱の中を分けて読みます。大名の行き来と妻子の居住を区別しないと、「家族全員が毎回往復した」と読み違えるからです。
- 移動と滞在に必要なものを考えます。家来を連れた往復や江戸の屋敷での生活には費用がかかるので、大名にとって負担になったと説明できます。
幕府にとっては、大名を定期的に江戸へ来させ、妻子を江戸に住まわせることが、大名の統制につながりました。一方、街道沿いの宿場では、人や荷物の行き来が増えました。「幕府のねらい」「大名への影響」「道沿いの町への影響」は関連しますが、問いが求めている相手に合わせて書き分けます。費用がかかったからすべての大名が同じだけ貧しくなった、とまではこの図から言えません。
答え:大名が領地と江戸を行き来し、妻子は江戸に住み、往復や江戸での生活に費用がかかるため負担になりました。
例題4 学問の違いを資料の内容から見分けます
資料アには「オランダ語の書物を通じて西洋の医学や科学を学ぶ」、資料イには「日本の古い書物を調べ、昔の言葉や考え方を研究する」とあります。ア・イの学問の名前を答え、それぞれに関係する人物を1人ずつ挙げましょう。
- 「何をもとに、何を調べるか」に注目します。学問という共通点だけでは、蘭学と国学を区別できないからです。
- アの「オランダ語」「西洋の医学」を蘭学につなげます。『解体新書』の翻訳に関わった杉田玄白が、内容に合う人物です。
- イの「日本の古い書物」を国学につなげます。『古事記』を研究した本居宣長を挙げると、学問の名前と研究対象が対応するからです。
「オランダに関係するから、江戸時代の学問は全部蘭学」とは言えません。また、外国の書物を学んだという説明だけから、当時の人が自由に海外へ出られたと結論づけることもできません。政治による制限と、限られた経路を通じた知識の受け入れを一緒に考えます。
答え:アは蘭学・杉田玄白、イは国学・本居宣長です。
つまずきやすいところと直し方
誤り1 統一した人物と幕府を開いた人物を入れ替えます
誤った書き方:「豊臣秀吉が全国統一をして、江戸幕府を開きました」。どこが違うかというと、全国統一を成しとげた人物と、江戸幕府を開いた人物が同じになっています。正しい書き方は、「豊臣秀吉が全国統一を成しとげ、その後、徳川家康が江戸幕府を開きました」です。
直すときは、文章を全部書き写す前に、「全国統一」と「江戸幕府」の2枚の言葉の札を作ります。それぞれに人物を対応させてから、順序を表す「その後」を入れます。信長も加える場合には、「全国統一を進めた」と書き、「成しとげた」と区別してください。似た動詞の違いが、人物の役割の違いを表しています。
誤り2 参勤交代を家康が始めた全国民の移動と考えます
誤った書き方:「家康は、百姓や町人を毎年江戸へ交代で来させました」。どこが違うかというと、制度を整えた時期と、命じられた相手の両方が違います。正しい書き方は、「家光の時代に参勤交代が制度として整えられ、大名が原則として1年おきに江戸と領地を行き来しました」です。
この誤りは、江戸幕府に関係する政策を何でも家康に集めてしまうと起こります。家康は幕府を開いた人物ですが、その後の将軍も政治のしくみを整えました。図2を指しながら、矢印に乗る言葉は「大名」だと確認します。行列に家来が同行することと、制度の対象が全国の人々であることは違います。
誤り3 鎖国を海外とのつながりがない状態と考えます
誤った書き方:「鎖国の間、日本はどの国や地域とも交流しませんでした」。どこが違うかというと、幕府による制限を、交流が全くない状態に置きかえています。正しい書き方は、「幕府は海外との行き来や貿易を制限しましたが、長崎などの限られた窓口で交流は続きました」です。
図3のように、窓口と相手を対にして見ると、残っていたつながりが見えます。長崎では中国・オランダと貿易し、対馬藩は朝鮮との外交や貿易の窓口になりました。薩摩藩は琉球王国を支配下に置き、琉球を通じて中国ともつながりました。松前藩はアイヌの人々との交易に関わりました。それぞれの関係は同じではなく、対等な国どうしの貿易として一まとめにはできません。

図3は交流の組み合わせを表す模式図です。上下の位置は南北を示さず、線の長さも距離や貿易量を示しません。中国が長崎の貿易相手として書かれているからといって、中国との関係が長崎だけに限られたという意味でもありません。学習の最初は長崎と中国・オランダを確実に押さえ、その後で、ほかの窓口を加えると整理しやすくなります。
練習問題
練習1 政策と人物を結びつけます
「田畑の面積や収穫量、耕作する人などを調べて記録し、年貢を取り立てる土台を整えた」という説明に当てはまる政策と、それを全国的に進めた人物を書きましょう。政策と人物を別々の欄に書き、最後に一つの文として読み直します。
練習2 年の差を確かめます
関ヶ原の戦いは1600年、江戸幕府の成立は1603年です。「両方の年も数えるので、差は4年です」という説明を直しましょう。引き算の式と、正しい年の差を書いてください。何個の年号が並ぶかではなく、2つの年号の差を求めます。
練習3 鎖国の説明を書き直します
「鎖国の間、長崎ではオランダとだけ貿易しました」という文を、相手が正しく伝わるように直しましょう。その上で、図3から長崎以外の窓口を一つ選び、その相手と組み合わせて書いてください。ここでは窓口の名前だけでなく、線でつながる相手まで読みます。
練習4 文化と学問を分類します
次のア〜エを、浮世絵・歌舞伎・蘭学・国学から選んで答えましょう。アは「版木を使って刷り、風景や役者などを描いた絵」、イは「舞台で演技や踊り、音楽を楽しむ芸能」、ウは「西洋の医学や科学をオランダ語の書物などから学ぶ学問」、エは「日本の古い書物を調べる学問」です。名前を答えた後に、判断に使った言葉も声に出します。
答えと解説
練習1の答え:検地、豊臣秀吉です。土地や収穫量などを調べる政策なので検地です。武器を取り上げる刀狩とは、調べたり集めたりする対象が違います。「検地を全国的に進めたのは豊臣秀吉です」とつなげて読めれば、政策と人物の対応を確認できます。
練習2の答え:1603 − 1600 = 3で、差は3年です。1600から1601、1601から1602、1602から1603という3つの間があると考えても確かめられます。年号を4個書けることは、差が4年である根拠にはなりません。
練習3の答え:「鎖国の間、長崎では中国やオランダと貿易しました」です。別の窓口と相手の組み合わせは、例えば「対馬藩と朝鮮」です。「薩摩藩と琉球」「松前藩とアイヌ」も図に合います。窓口が複数あることは、だれでも自由に外国と貿易できたことを意味しません。
練習4の答え:アは浮世絵、イは歌舞伎、ウは蘭学、エは国学です。ア・イは楽しみ方、ウ・エは調べる対象に注目すると区別できます。役者を描いた浮世絵があるように、関係するものどうしでも名前と内容を分けて説明します。
次の単元へのつながりと家庭での確かめ方
次に開国と明治の国づくりを学ぶときには、江戸時代の政治や海外との関係が、変化を比べる基準になります。幕府と藩が土地を治めるしくみを知っていれば、その後に全国を一つの政府が治める方向へ進んだことの意味を考えられます。鎖国下にも貿易があったと押さえておくと、開国を「初めて外国と出会ったこと」と取り違えずに済みます。
家庭での確かめ方の一つ目は、5分でできる人物と動作の組み合わせです。信長・秀吉・家康を紙に書き、お子さまがそれぞれの横に「統一を進める」「統一を成しとげる」「江戸幕府を開く」を置きます。余裕があれば政策を一つ加えます。答えに迷ったときは、名前を何度も言わせるより、検地なら「何を調べたのか」に戻ります。
二つ目は、別の5分で図を言葉にする練習です。図2か図3を一つ選び、箱、矢印や線、相手の順に説明してもらいます。図3なら「長崎で中国やオランダと貿易した」と言った後で、「交流が全くなかったとは言えない」と結びます。図にあることと、図だけではわからないことを分けられれば、資料を読む練習にもなります。
個別指導では、参勤交代の理由で止まった場合にも、まず将軍と大名、江戸と領地の区別まで戻って確かめます。説明文を長くする前に、だれが何をするしくみなのかを短い文で結べるかを見ます。
まとめ
歴史の答案で一つの人物名を書けても、その前後にどんな社会があったかは、まだ文に表れていません。「なぜ大名を江戸へ来させたのか」「鎖国のもとで、なぜ西洋の医学を学べたのか」と問い直すと、政治、くらし、文化の間に道筋ができます。図の線を根拠にして自分の言葉で説明することは、出来事をばらばらに覚える学習から進む一歩です。
天下統一から江戸の文化への道筋は、だれが何を治め、人や物や知識がどこを通ったかをたどることで見えてきます。
本気になった日が、入塾の日。
お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。
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