電話 0422-27-7828チャットで質問無料相談を予約

武蔵野個別指導塾の特徴

【小6社会】明治維新と近代の日本を図解で総まとめ—開国・新しい国づくり・憲法と議会・産業の発展|武蔵野個別指導塾

【小6社会】明治維新と近代の日本を図解で総まとめ—開国・新しい国づくり・憲法と議会・産業の発展のアイキャッチ 武蔵野個別指導塾
X LINE Facebook

開国から明治の改革、憲法と議会、産業の発展までを3枚の図で整理します。年表の読み取りと理由を説明する例題で、制度の変化と人々のくらしを結びつけて確かめられます。

よくあるのは、学習発表会の練習の合間の音楽室で、社会のノートを開いたお子さまが「鉄道ができたことと、憲法ができたことは、どうつながるの」と手を止める場面です。明治時代の学習では、新しい言葉が次々に出てきます。用語と年号を別々に覚えるだけでは、同じ時代の出来事なのに、頭の中では離れたままになりがちです。

この単元では、まず「外国との関係」「国の政治の仕組み」「人々のくらし」の3つに目を向けます。開国によって外国との関係が変わり、新政府が制度を整え、その制度のもとで学校や産業、生活が変化しました。ただし、国が制度を決めた日に、全国の生活が同じように変わったわけではありません。出来事の順序と変化の広がり方を区別すると、年表も説明問題も読みやすくなります。名前を答えるところから、何を変えるための取り組みだったのかを短い文で説明するところまで進めましょう。

この単元で身につけること

前の単元で学んだ江戸幕府と藩の政治が、明治にどのように組み替えられたのかが出発点です。また、小5で学んだ工業や交通の働きは、工場や鉄道が増えた意味を考える助けになります。用語の読み方だけで止まらず、「何を」「どのように変えたか」を添えることが学習の目標です。

基本の考え方

開国と明治維新は同じ出来事ではありません

江戸時代、日本は外国との交流を幕府の管理のもとで限っていました。外国との関係がまったくなかったわけではありません。長崎などを通した交流があったことを思い出すと、開国を「外国と初めて出会ったこと」と取り違えずにすみます。

1853年、アメリカのペリーが来航し、日本に開国を求めました。翌1854年に日米和親条約が結ばれ、下田と函館が開かれました。1858年の日米修好通商条約によって貿易が始まることになります。この条約は、日本が輸入品にかける関税を自由に決められないことなど、日本に不利な内容を含む不平等条約でした。「港を開くこと」と「貿易を始めること」は、年表で区別して確認します。

外国への対応をめぐって国内の対立が強まる中、1867年、徳川慶喜は政権を朝廷に返しました。これを大政奉還といいます。その後、天皇を中心とする新しい政府がつくられましたが、旧幕府側との戦いも起こりました。政権を返したことで、すべての対立がその場でなくなったわけではありません。

1868年、新政府は五箇条の御誓文を示し、新しい政治の方針を掲げました。明治維新とは、幕府の政治が終わり、新政府のもとで政治や社会の仕組みが大きく変わった一連の動きを指します。「開国は外国との関係の変化」「明治維新は政治や社会の大きな改革」と言葉を補えば、2つを混同しにくくなります。

改革は何のために行われたのでしょうか

明治政府は、欧米の国々に対抗できる国づくりを目指し、産業を育て、軍隊を整えました。この方針を富国強兵といいます。そのためには、全国をまとめる政治の仕組み、人材、費用が必要でした。図1のように、改革を変えた対象ごとに分けると、長い用語も意味のある組み合わせになります。

図1 明治政府の主な改革を変えた仕組みごとに整理した図

1871年の廃藩置県では、藩をなくして府や県を置き、政府が任命した役人が治める仕組みにしました。もとの藩の名前を変えただけではありません。各地を治める権限を政府に集め、全国をまとめて政治を進めようとした点が中心です。現在の都道府県の数や境界が、この時にそのまま完成したと考えないようにします。

1872年の学制は、全国に学校を設け、広く子どもが教育を受けることを目指した制度です。しかし、当時は学校にかかる費用や子どもの働き手としての役割もあり、すぐにすべての子どもが通えたわけではありません。「教育を広める制度」と「通学の実際」を分けると、政策の目的と家庭の事情の両方が見えてきます。

1873年の徴兵令は、満20歳の男子に兵役の義務を課す制度でした。当初はさまざまな免除の決まりもありました。武士を中心とした軍事の仕組みから、政府が国の軍隊を組織する仕組みへ変わったと捉えます。同じ1873年に始まった地租改正では、土地の所有者が、土地の価格をもとに決められた税をお金で納める仕組みにしました。収穫量が少ない年にも税の負担があったため、農民のくらしには重い影響がありました。

文明開化と産業の発展をつなげます

西洋の文化や生活様式が取り入れられ、くらしが変わる動きを文明開化といいます。洋服、れんが造りの建物、ガス灯などは、その様子を捉える手がかりです。1872年には新橋と横浜の間に鉄道が開通しました。郵便の仕組みも整い、人や物、情報の移動の仕方が変わっていきました。

ただし、都市の新しい建物の絵を見て、全国の家や服装が一度に西洋風になったと考えるのは早計です。地域や仕事、家庭の事情によって変化の速さは違いました。和服を着る人や農業で暮らす人も多く、新しいものと以前からの生活が重なっていました。

政府が産業を育てる政策を殖産興業といいます。富岡製糸場のような官営工場をつくり、外国の機械や技術を取り入れました。製糸は、かいこのまゆから生糸をつくる仕事です。生糸は輸出品として重要になり、やがて民間の工場も発達しました。文明開化は文化や生活の変化、殖産興業は産業を育てる政策という違いを押さえながら、鉄道のように両方に関わるものもあると考えます。

例題で解き方を確かめる

例題1 改革の名前を説明から選びます

問題です。「藩をなくし、府や県を置いて、政府が任命した役人に治めさせた改革」は何ですか。学制、廃藩置県、地租改正の中から選び、政府が目指したことも答えましょう。

  1. 説明の中の「藩」「府や県」に注目します。変えた対象が教育や税ではなく、地方を治める仕組みだと絞れるからです。
  2. 選択肢を、それぞれの対象と結びつけます。学制は教育、地租改正は土地にかかる税、廃藩置県は地方の政治なので、説明に合うのは廃藩置県です。
  3. 「政府が任命した役人」という部分から目的を考えます。藩ごとに治める仕組みを改め、政府が全国をまとめて治めようとしたと説明できます。

言葉の中に「県」があるから選ぶだけでは、別の説明になったときに迷います。図1の地方の政治の欄へ戻り、誰が役人を任命するようになったのかまで確かめると、理由も書けます。「全国を同じにした」という答えは範囲が広すぎるため、政治の仕組みについての説明だと明らかにします。

答え:廃藩置県で、政府が全国をまとめて治めることを目指しました。

例題2 憲法と議会を年表で読み取ります

問題です。図2を見て、国会開設の勅諭、大日本帝国憲法の発布、最初の帝国議会の順序を答えましょう。また、国会開設の勅諭から最初の帝国議会までは、西暦の年の差で何年ですか。

図2 国会を開く約束から憲法の発布と議会までの年表

図2の横軸は、1881年から1890年までを同じ間隔で区切った年表です。国会開設の勅諭は、国会を開くことを天皇が国民に約束したものです。自由民権運動の広がりを背景に、1881年に示されました。

  1. 左右の端の年と目盛りを確認します。横軸が何を表すかを先に読むと、文字の置かれた高さを出来事の順序と取り違えずにすみます。
  2. 3つの出来事から下りる線をたどり、対応する年を読みます。勅諭は1881年、憲法発布は1889年、最初の帝国議会は1890年なので、この順に並びます。
  3. 終わりの年から始まりの年を引きます。1890 − 1881 = 9なので、年の差は9年です。今回は月日を使った期間ではなく、西暦の数の差を尋ねています。

出来事が3つあることと、年の間隔が3つ分であることは同じではありません。図2では勅諭から憲法発布までが8年、憲法発布から最初の議会までが1年であり、線上の距離もその比になっています。年表を読む際は、出来事の数ではなく、軸に示された年を根拠にしましょう。

答え:国会開設の勅諭→大日本帝国憲法の発布→最初の帝国議会の順で、年の差は9年です。

例題3 自由民権運動と憲法を説明します

問題です。「自由民権運動で人々は何を求めましたか。また、大日本帝国憲法のもとで、国の政治の中心に位置づけられたのは誰ですか」と尋ねられました。運動の要求と憲法の仕組みを分けて答えましょう。

  1. 問いが2つあることを確認します。人々が求めたことと、定められた制度は違う対象なので、それぞれに答える必要があるからです。
  2. 自由民権運動を「国会の開設」「政治への参加」という言葉で整理します。板垣退助らが進めた運動では、国会を開いて国民の意見を政治に反映させることが求められました。
  3. 大日本帝国憲法の特色を確かめます。伊藤博文らが準備を進め、1889年に発布されたこの憲法は、天皇に主権があるとする仕組みでした。
  4. 運動と制度を、それぞれ1文にまとめます。「国会を求めた」ことから「国民全員が政治を決めた」と飛躍しないために、選挙の範囲にも注意します。

1890年に最初の帝国議会が開かれました。帝国議会は衆議院と貴族院からなり、衆議院の議員を選ぶ選挙が行われましたが、初めは一定額以上の直接国税を納める満25歳以上の男子に選挙権が限られていました。女性に選挙権はありませんでした。国会ができたことと、現在のような選挙の仕組みになったことを同じにしないのが、この問題の要点です。

答え:自由民権運動では国会の開設などを求め、大日本帝国憲法では天皇が政治の中心に位置づけられました。

例題4 戦争と産業の変化を順序立てます

問題です。「1904年に始まった日露戦争」「1894年に始まった日清戦争」を古い順に並べ、それぞれの相手国を答えましょう。さらに、「工場や鉄道の発達は、すべての人の生活をただちに楽にした」という説明の、直すべき点を述べましょう。

  1. まず開始年を比べます。戦争名の並び方ではなく年を根拠にすれば、日清戦争が先で、日露戦争が後だと判断できます。
  2. 戦争名と相手国を対応させます。日清戦争の相手は清、日露戦争の相手はロシアです。清は当時の中国の王朝の名前です。
  3. 産業の変化は、便利になった面と負担が生じた面に分けます。物を多くつくり運べるようになった一方、工場での長時間の労働や公害などの問題もあったからです。
  4. 「すべて」「ただちに」という言葉を見直します。生活への影響は、人の立場や地域によって異なるので、全員に同じ結果が出たという説明はできません。

日清戦争は朝鮮をめぐる日本と清の対立から、日露戦争は満州や朝鮮をめぐる日本とロシアの対立から起こりました。日本はこれらの戦争を経て国際的な立場を変えていきましたが、多くの命が失われ、国民には税などの負担もかかりました。戦争の結果だけを、生活がよくなった証拠として使わないようにします。

答え:日清戦争の相手は清、後の日露戦争の相手はロシアで、産業の発達には生活の変化とともに労働や公害の問題もありました。

つまずきやすいところと直し方

「開国すると、すぐ明治の政治になった」を直します

誤った書き方は「ペリーが来航した1853年に、明治政府ができた」です。どこが違うかというと、外国から開国を求められた出来事と、その後の政治の変化を1つにしている点です。来航への対応を行ったのは江戸幕府であり、開国後もしばらく幕府の政治が続きました。

正しい書き方は「ペリー来航と開国の後、国内で対立が強まり、大政奉還などを経て明治の新しい政治が始まった」です。ノートには「1853年・来航」「1867年・大政奉還」「1868年・新政府の方針」と分けて置きます。年を並べたら、その間にどのような問題が続いていたかを言葉で補うと、年号だけの暗記から一歩進めます。

「憲法ができて、全員が選挙に参加した」を直します

誤った書き方は「大日本帝国憲法が発布されると、国民全員が議員を選べるようになった」です。どこが違うかというと、憲法の発布、議会の開設、選挙権の条件をまとめてしまっている点です。初めの衆議院議員の選挙では、性別、年齢、納税額による条件がありました。貴族院は、衆議院と同じ選挙で議員を選ぶ仕組みではありませんでした。

正しい書き方は「大日本帝国憲法が発布され、翌年に帝国議会が開かれたが、衆議院議員の選挙に参加できる人は限られていた」です。図2で年の順序を確認したうえで、年表だけでは読み取れない選挙の条件を本文で補います。資料に書かれていないことを、矢印の流れだけから決めつけない練習にもなります。

「産業の発展で、くらしの問題はなくなった」を直します

誤った書き方は「工場が増えて、だれもが豊かで楽なくらしになった」です。どこが違うかというと、生産や輸送の変化を、人々全員の生活の改善と同じにしている点です。図3のように、生産から輸送、くらしへというつながりを押さえ、その途中や結果にどんな問題が起きたかも確かめます。

図3 生産と輸送の発達がくらしにつながる一方で生じた問題

製糸業や紡績業が発達し、日清戦争後には鉄鋼業なども発展しました。官営八幡製鉄所は、鉄鋼業の発展を考える代表的な施設です。工場の製品や原料を大量に運ぶためにも、鉄道や船による輸送が重要になりました。小5で学んだ「工場だけで生産が成り立つのではなく、原料や輸送と結びつく」という考え方が、ここでも使えます。

一方、工場では厳しい条件ではたらく人々がいました。鉱山の開発では、足尾銅山の鉱毒事件のように、川や農地、人々の生活に被害を与える問題も起こりました。田中正造は、その被害を訴えた人物です。生産量が増えることだけに目を向けると、その土地で暮らす人の困りごとを見落としてしまいます。

正しい書き方は「産業や交通が発達する一方、長時間労働や公害などの問題も生じた」です。図3の下の欄は、上の矢印が必ずよい結果だけを生むわけではないことを表しています。便利さを否定するためではなく、同じ変化を異なる立場から確かめるための整理です。

練習問題

練習1

「1858年の日米修好通商条約」「1853年のペリー来航」「1854年の日米和親条約」を、古い順に並べましょう。また、日本が輸入品にかける関税を自由に決められなかったことから、当時の条約はどのような条約と呼ばれますか。並べ替えと用語の両方に答えます。

練習2

次の説明に合う制度名を答えましょう。アは「全国に学校を設け、広く子どもが教育を受けることを目指した制度」、イは「土地の所有者が、土地の価格をもとにした税をお金で納める仕組み」です。さらに、イについて「米の収穫量で毎年税が決まった」と説明してよいか、理由を添えて答えましょう。

練習3

図2を使い、大日本帝国憲法の発布から最初の帝国議会までの西暦の年の差を求めましょう。そのうえで、「議会が開かれたので、この時から国民全員に選挙権があった」という文を、参加できる人の範囲が伝わるように直しましょう。

練習4

日清戦争と日露戦争を、開始年が古い順に並べ、相手国をそれぞれ書きましょう。さらに、図3から「産業の発達による生産や輸送の変化」と「人々の生活に生じた問題」を1つずつ選び、両方が入った短い文をつくりましょう。

答えと解説

練習1の答えは「ペリー来航→日米和親条約→日米修好通商条約、不平等条約」です。1853、1854、1858の順に読みます。港を開いた段階と貿易が始まる段階を区別し、外国との約束の内容が日本に不利だったことまで確認します。

練習2の答えは「アは学制、イは地租改正」です。税の基準は土地の価格なので、「米の収穫量で毎年税が決まった」とは説明できません。納める人、基準、納め方をそろえて読むと、地租改正の仕組みを短く正確に表せます。

練習3の答えは「1年、初めの衆議院議員の選挙に参加できる人は、一定額以上の直接国税を納める満25歳以上の男子に限られていた」です。計算は1890 − 1889 = 1です。年表でわかる順序と、本文で学んだ選挙の条件を組み合わせて答えます。

練習4の答えは「日清戦争・清→日露戦争・ロシア」です。文の例は「工場と鉄道が発達して物の生産や輸送が変わる一方、長時間労働や公害の問題も生じました」です。「製品を大量に運べるようになったが、厳しい条件ではたらく人もいました」という答えでも、変化と問題が両方入っていれば適切です。

次の単元へのつながりと家庭での確かめ方

明治の終わりに近づくと、日本と周辺の国々との関係はさらに変わっていきました。1910年には日本が韓国を併合し、植民地支配を行いました。次の時代を学ぶ際には、国内の産業や政治の動きだけでなく、周辺の国々の人々にどのような影響があったかも考えます。また、条約改正は、開国時に結んだ不平等条約の内容を改める取り組みです。陸奥宗光による領事裁判権の撤廃、そして小村寿太郎による関税自主権の回復を、外国との関係の変化としてつなげて捉えます。

家庭では、5分でできる確かめ方を2つ用意できます。1つ目は、紙に「地方の政治」「教育」「税」と書き、お子さまに対応する改革名と変えた内容を話してもらう方法です。答えが止まったら、用語をすぐ伝える前に「何を変える制度だったかな」と、対象へ戻ります。

2つ目は、図2の年表を見た後で隠し、国会を開く約束、憲法、議会を順に並べ直す方法です。並べ終わったら「議会があれば全員が選挙に参加できたのかな」と確かめます。順序を覚えていることと、制度の意味を理解していることを、短い時間で分けて見られます。

個別指導では、廃藩置県で止まった場合は江戸時代の幕府と藩の関係まで戻り、税の説明で迷う場合は「誰が、何を基準に、何で納めるか」を一緒に整理します。先の年号を増やす前に、説明の土台になっている言葉がつながっているかを確かめます。

まとめ

明治の学習で説明を深める手がかりは、変わった仕組みの名前を、人々の具体的な行動に置き換えることです。学校が設けられる、税をお金で納める、工場ではたらく、議員を選ぶという動きに直すと、制度とくらしの距離が縮まります。同時に、参加できなかった人や、変化によって負担を受けた人にも目を向けられます。明治の近代化は、できた制度の名前だけでなく、その制度のもとで誰のくらしがどう変わったかまでたどってこそ説明できます。

本気になった日が、入塾の日。

お子様の教育、迷ったら「丸投げ」してください。必ず、期待以上の結果で返します。武蔵野で育む、武蔵境で学ぶ。

電話は年中無休。365日、24時間、お電話可能。

お電話 チャットで質問チャット